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プレ・ラーリオス

夜明けのレクイエム(2−7)
 

2ー7章 フローラル・フレーバー

 うっそうと茂った暗い木々の間を、ぼくは走っていた。
 周囲では、狼の咆哮がこだましている。
 完全に囲まれていた。
 絶望にさいなまれ、それでも救いを求めて、足を動かし続ける。
 だけど、前方の茂みがガサガサと鳴って、大きな影が飛び出してきた。立ち止まって身を守る余裕もなく、獣がぼくを押し倒す。鋭い牙が喉笛に喰らいつこうとするのを、かろうじて防ぎとめた。
 右手首に激痛が走る。
 痛みをこらえて、懸命に腕を振り回すと牙は離れた。
 何とか立ち上がり、せめて応戦しようと身構えると、狼の姿は幻のように消えていた。
 いつしか、周囲の吠え声も聞こえなくなり、ぼくはホッと一息ついた。
 腕の傷から血が流れていたので、なおも周囲を警戒しつつ、持っていた白布を巻いて応急処置する。生き延びた幸運を神に感謝すると、生まれ育った屋敷に帰還することにした。
 森の道を歩きながら、ぼくは体の異変に気付いた。腕の傷が次第に熱くなり、それが次第に全身に広がっていくようだ。はあはあと息を喘がせながらも、ぼくは感覚が異常に研ぎ澄まされていることを悟った。
 苔むした木々の匂いが鼻につく。
 周囲の枝々を小動物が走っていく物音。
 食欲が刺激され、唾液がこみ上げてきた。舌なめずりをすると、鋭く尖り始めた犬歯が意識される。
 夜の獣道も、それほど暗いものではなくなっていた。夜行性の生き物特有の暗視能力が、ぼくの瞳には備わっていた。
 狼の声が響き渡った。
 それは周囲からではなく、自分の内面から聞こえてきた。

 ぼくは、自分の身に起こっていることを理解した。
 これは夢だ。ぼくの役割は、たぶんローレンス・タルボット。その固有名詞はドラキュラ伯爵や、フランケンシュタインの怪物ほど知られていないけれど、ユニバーサルの生み出した三大モンスターの一つ。
「どうして、こういう夢ばかり見るんだ?」我に返ったぼくはつぶやいた。
 夢だと分かったからといって、自分で物語の内容を操作できるわけじゃないのは、以前と同じ。無性に(まま)ならなさを感じながら、タルボットだか他の誰だか分からない新生の狼人間の運命を、ぼくは辿(たど)っていくしかなかった。

 獣の本能に導かれて走り出す。行き着く先は、狩りの獲物がいるところ。
 森の中の小さく開けたところに、澄んだ泉があった。その場所に既視感(デジャヴュ)を覚え、ぼくの心に痛みが走る。
 前に見たときと同様、そこは満月に照らされていた。
 狼人間にはふさわしい夜だけど、それだけじゃない。月明かりの下の泉で水浴していたのは、ぼくが会いたくてたまらなかった一人の少女。
 狼の嗅覚は、彼女の甘やかな匂いを敏感に受け止めていた。現実の記憶よりも美化されて、それでいて絶望的な予感を思わせる肌の匂い。ぼくはゴクリと喉を鳴らした。欲望がこみ上げてきて、唾液がポタポタ流れ落ちる。
 ダメだ。
 同じ過ちを繰り返すまい、と狼人間の自分を必死に制御しようとした。
 けれども、悪夢は繰り返された。
 金髪の少女は、澄んだ声で悲鳴を上げた。
 青い瞳は、自分に襲い掛かる怪物を前にして、驚愕の色を浮かべていた。
 彼女は抵抗しなかった。いや、できなかったのだろう。
 ぼくは本能のままに、その喉笛に喰らいついた。そして、古い映画では大抵カットされるシーンが、生々しく映し出された。
 化物が少女の肉体をむさぼる惨劇を、ぼくは加害者の視点で体験した。
 嬉々として、獲物を味わうスプラッター映画の怪物。
 そう、人として涙を流し悲嘆に駆られながらも、獣と化したぼくの一面は、欲望が満たされたことで喜びを感じていた。その事実に吐き気すら催しながらも、夢の中のぼくは血の匂いと味に昂ぶる興奮を覚えて、咆哮するのだった。

 …………。
 興奮が醒めると、いつしかぼくの変身は解けていた。
 超自然的な変身の名残で、着ていた衣装はひどい有様だったけれども、かろうじて大切なところを覆い隠す機能は果たすことができていた。
 これはホラー映画の戯画であって、大人向けの内容じゃない。
 少女の残骸には、目を向けることすらできなかった。ホラー映画なら、死者が甦ることもある? でも、凄惨な遺体が動き出しても、それはリビング・デッド、いわゆるゾンビだ。
 『狼男VSゾンビ娘』なんてB級映画は、趣味じゃない。
 遺体から無理に意識をそらせようとしていると、ふと暗闇から視線を感じて、背筋がゾクリとした。狼男を怯えさせるなんて、どのような悪夢の産物(ナイトメア)なんだ? 
 その単語を思いついたとき、ぼくのあやふやな記憶が、より鮮明に蘇ってきた。
「トロイさん……いや、ナイトメア」
 そう、つぶやいたのに応じて、黒ローブの女性が、茂みの向こうから姿を現す。「お久しぶりですね、ラーリオス様」
 トロイメライ。または悪夢の使い(ナイトメア)の呼称を持つ影の星輝士。今度は最初からフードを下ろし、暗い背景に溶け込むような長い黒髪と、同じ色をした切れ長の瞳をさらしている。闇をまといながら、一際目立つ白い肌の顔面(かんばせ)。その中で、かすかに咲いたような薄い紅色の唇が、静かに言葉を紡ぐ。
「私のことを覚えていらしたようで、何よりです」
「いや、さっきまで忘れていたみたいだ。君のことも、以前の悪夢の結末も」
「夢の中の記憶は移ろいやすいものですから」ナイトメアは、そううそぶいた。
 けれども、ぼくはこの女が記憶を操作したのではないか、と疑った。都合の悪い記憶をあいまいにして、自分の目的のために、ぼくを利用するつもりで。
 そう相手に告げると、彼女はクスクス笑った。「自分の都合の良いように物事を忘れたのは、あなたの心が原因よ。他人のせいにしてはいけないわ。あなたは以前の夢で、自分の犯した過ちを嘆き悲しんだ。その重さから逃避したいと思ったのよ。だから自己防衛のために、心が記憶を封じた。少なくとも、私の分析ではそういうことよ」
 そこまで言ってから、いたずらっぽく付け加える。「信じるか信じないかは、あなたの勝手だけどね」
「心の力で、そんなに都合よく何もかも操作できるもんか」ぼくは、うまく行かない《気》の訓練のことを思った。「氷のグラスを溶かすことだって、できやしない」
「……何の話か分からないけど」ナイトメアは、珍しく不審そうな表情を浮かべた。この何でもお見通しのような雰囲気の女性に、一瞬でもそのような顔をさせたことで、ぼくはかすかな満足感を覚えた。
「《気》の操作のことだ」
 それだけの言葉で何かを察したのか、ナイトメアはうなずいた。それから、淡々と口にする。「星輝石の力を借りずに、《気》を操作することなんて、普通の人間にはできないわ」
「ラーリオスでもか?」
「あなたはまだ、厳密にはラーリオス様ではない」ナイトメアの表情は、元の無機質な仮面に戻っていた。「今はまだ、ラーリオス候補に過ぎない。太陽の星輝石をその身に宿すまでは」
「才能があるから、選ばれたんじゃないのか?」
「候補は一人じゃない。あなたが不適格だと判明すれば、代わりが選ばれる」
 そんなことは聞いていない。ぼくは急に、自分の足元が不安定な、何とも言えない思いに駆られた。
「みんなは、それを知っていて、ぼくをラーリオス様と呼んでいるのか?」
 急に、自分が道化のように思えて、腹立たしさを覚えた。
 その気持ちをなだめるように、ナイトメアは言葉を続ける。
「それを知るのは、星霊皇や一部の力ある神官と、上位星輝士の筆頭バハムートだけ。あなたとスーザンを選んだのは、預言者(エリヤ)のセイナよ。彼女の息子ユウキも候補の一人。なぜ、彼女がユウキではなく、あなたを選んだのかは、私にも分からない」
 今まで、ソラークやジルファーが偉い立場と思っていたけど、彼らにも知らされていない秘密があったのだ。もしかすると、ぼくと同じように、彼らも自分の意思とは関係ないところで、組織の手の上で動かされているのかもしれない。
 そう言えば、ジルファーは「真理の探究のために戦っている」と口にしていたような。つまり、ゾディアックには、彼にも到達できない真理があるわけだ。
「どうして、そんな大事な秘密を、ぼくに打ち明けるんだ?」ぼくは気になって尋ねた。「正直、あなたはジルファーよりも率直に真実を教えてくれているようだ。ぼくがスーザンと戦う運命にあることを、誰も教えてくれなかった」
 ぼくはその名を出した瞬間、何気なしにちらっと横を見た。そこに遺体がなくなっていて、ホッとする。
「消したのよ」ナイトメアが、ぼくの視線の動きを察したのか、そうつぶやいた。「あんまり、見ていて気持ちのいい物じゃなかったから」
 その責めるような目に見つめられると、何となくどぎまぎする。
 考えてみれば、恥ずかしい夢だ。裸で水浴している年頃の娘を、獣と化して襲うなんて、フロイト辺りの心理学者が聞けば、「欲求不満の表れ」と診断されかねない。夢が潜在意識の表れだなんて学説は、ぼくにとっては心外だ。
 ぼくはスーザンを殺したいなんて、思っていない。
 ぼくはスプラッター映画の怪物になりたいなんて、思っていない。
 自分の欲求どおりに夢が改編できるなら、スーザンとは幸せに結ばれて、ハッピーエンドが望ましい……。
 そこまで考えて、ふと気付いたことがあった。
 疑問をそのまま問い質す。
「前に、他人の夢を勝手に改編したりはできないって言ってなかったか?」
「よく覚えていたわね」
 確かに。
 夢の中では、ぼくも現実より頭の回転がいいのかもしれない。もしかすると脳の眠っている潜在能力まで発揮できるのかも。そこで得た記憶や思考が、起きてからも残っているといいのだけど。
「夢を操作するのは、確かに困難よ」ナイトメアが、フロイトにも匹敵する夢の専門家らしい口調で語る。「特に相手が同意せず、抵抗する場合はね。それより、もっと簡単なことがある」
「それは何?」
「操作ではなく消すこと」
「どう違うんだ?」
「操作はデリケートな作業よ。意中の相手の気持ちを、自分になびかせるぐらいね」そう言うと、トロイさんはぼくの目をのぞき込みながら、微笑んで見せた。暗い瞳に心が吸い込まされそうな感じがして、背筋がゾクリとする。人の気持ちをなびかせるデリケートな手管を、彼女は身に付けているんじゃないか。
 ぼくは、何度かまばたきして、トロイさんの視線から目をそらした。「確かに、デリケートな作業みたいだね」平静を装いながら言う。「そう簡単にはいかない」
「でも、消去は簡単」冷ややかな言葉に、さっきとは違う意味でゾクリとした。「思い通りにならないものでも、壊したり、消し去ったりすることはできる。単純な芸当なのよ」
 ぼくはとっさに身構えた。その言葉に殺気めいた響きを感じたから。
 それでも、トロイさんは動じることなく、余裕の笑みを浮かべる。「恐れることはないわ。私があなたを傷つける理由はない。むしろ、むやみに人を傷つけるのは、あなたの方じゃないかしら。破壊衝動に突き動かされて、こういう夢を見る。愛する人を破滅に追い込んでしまう……」
 痛いところを突かれた。
 握りしめた両の拳を何度か開いたり、閉じたりしながら、ようやく落ち着く。
「スーザンを傷つけるのは、ぼくの意思だって言うのか?」重い口調で尋ねると、
「あなたでなければ、星王神ね」そう、トロイさんは告げた。星王神に対する反逆心を、彼女は隠そうともしない。「あなたがラーリオスの力を宿せば、星王神の意思をも、その身に引き受けることになる。人としての心が弱ければ、神の操り人形として、犠牲を求めるようになるわ」
「そんなバカな。星王神ってのは、邪神か破壊神の類なのか?」
「邪神の定義にもよるわね。人類が堕落したからという理由で、世界を覆う洪水で大量虐殺するような神は、邪神と呼ぶべきかしら?」
「……神学問答には興味がない。ぼくは、守りたい者を守るために戦う。決して、破壊のために力を使ったりはしない」
「それなら意思を強く持つことよ」トロイさんの声は静かだけど、熱を帯びていた。「ラーリオスの力は、救世主にも破壊者にもなれる。ラーリオスとシンクロシアだけが、神の意思を受けて、その力を世界に及ぼすことができる。でも、神の意思が人類の救済かどうかは目下、不明瞭なのよ。神が人類を見限ったとき、あなたは神の側に立つのか、人類の側に立つのか、選択しなければならない」
「……あなたの立場はどうなんですか?」
「私は、もちろん人の側よ。人のあらゆる想い、心を肯定する。とりわけ愛情というものをね。愛する者といっしょなら、たとえこの身が闇に堕ちても……」そこまで言いかけてから、微笑をこぼす。「少しメロドラマな言い方になったわね。あなたのゴシックホラーな夢に影響されたかしら」
「闇に堕ちるなんて……」ぼくはダークジェダイの悲劇を思い出した。
 ダークジェダイの一人、ドゥークー伯爵を演じたのは、クリストファー・リー。それは、ハマーのホラー映画、吸血鬼ドラキュラ伯爵のパロディーだとも兄貴は言っていた。それがきっかけで、ホラー映画をいくつか見たのだけど、悲劇的結末の作品が多くて、気が滅入る。
 そういう結末は、ぼくの趣味じゃない。
 だから意を決して、強く宣言した。
「ぼくは、闇の操り人形にはならない!」
 映画の教訓からか、トロイさん、いや、ナイトメアは天性の誘惑者だと、にわかに悟った。自分の目的のために、ぼくを闇の側に引き込もうとしている。そのために、ぼくの夢に入り込んだりして……。
「だったら、光の操り人形なら、かまわないとでも?」そうささやきながら、ナイトメアは妖艶な笑みを浮かべた。言葉による説得から方針を切り替えたのか、魅了の力を宿した視線を向けてくる。暗い瞳に、ほんのりと赤い光が灯っていくような……。
 危険を感じて、とっさに顔を背けた。「ぼくは、ぼくだ。誰の操り人形でもない!」それだけ言って、拒絶の意志を示すのが精一杯だった。
 超自然的な誘惑は(あらが)いがたく、長時間の抵抗は無意味だと分かっていた。だから、ナイトメアの魔力から逃れるため、目を閉じながら、ひたすら夢から醒めることを願った。
 そのとき、激痛が襲いかかってきた。

 このときの目覚めは、カート・オリバーの一生の中でも二番目に最悪だった、と思う。
 夢の中では気付かなかったけれど、現実のぼくの肉体は相当な傷を負っていたのだ。痛みのあまり、起き上がることすらできないぐらい。
 意識が混濁しかけるのを、歯を食いしばって我慢する。これ以上、眠っていてはいけない。夢の中で、巧みに心を奪われることは避けないと。
 狼の咆哮が頭の中でガンガンとこだまする。口の中に、鉄の苦味と肉の酸味を感じて、にわかに吐き気がこみ上げてきた。それでも、痛みのために身じろぎ一つ取れない。
 最悪の一瞬に全身がブルブルと震えたあと、胸元にそっと柔らかい感触を覚えた。温かい手の平から淡い力が伝わり、癒しの効果が全身を覆った。痛みが和らぎ、吐き気が収まった。ようやく生き返った心地になって、ためていた息を吐き、そして吸う。
 甘い花の香りが鼻腔をくすぐって、悪夢の記憶を追い払ってくれた。
 安らいだ気持ちで、ゆっくり目を開けると、左手に白ローブの女性の姿があった。かたわらの椅子に腰かけ、瞳を閉じながら懸命に何かの祈りの言葉を唱えている。
「カレンさん……」乾いた喉で、何とかつぶやく。
 むきだしの胸に当てられた手がピクリと動いて、彼女は青い瞳をこちらに向けた。一瞬、暗く見えた視線が明るさを取り戻した。
「気付かれましたか」心配と安堵の入り混じった声。
「ああ、何とかね」自分がベッドに横たわっていることに、ようやく気付いた。上半身を起こそうとしたけど、まだ痛みが完全に抜けたわけではなかった。うめき声とともに顔をしかめる。
「まだ動いてはダメ」そう言って、カレンさんは思わぬ力でぼくをベッドに抑えこむ。「どうして、あなたはそうすぐに動こうとするんですか? 自分の状況も分からないで」
 はあ。
 何だか、初めてカレンさんに出会ったときのことを思い出した。第一印象は清楚な看護師や修道女で、今もその雰囲気は変わらない。作る料理は甘党で、身内に対しては意外と辛らつな口をきくこともあるけれど、細やかな気遣いのできる人。
 その程度には、彼女のことを理解していた。
 でも、気付いていないことも多い。
 たとえば、彼女の白いローブの袖口なんかに、緑の刺繍が施されていたことは、このとき初めて分かった。指輪や腕輪、首飾りなど装飾品の類は身に付けておらず、化粧気も控えめ。都会風の派手さとは縁のない姿だけど、ワンポイントのお洒落が秘めた美しさを引き立たせる。そんなタイプの女性だった。
 もし、スーザンと出会っていなければ、たぶんカレンさんに一目惚れしていたかもしれない。
 でも、ぼくの夢に出てくるのはスーザンであって、カレンさんではない。もう一人、女性のイメージがあったような気もしたけど、明るい光の中ではおぼろげな記憶でしかなかった。
 体に力が入らず、無理に動こうとしても痛いだけなので、ぼくは横になったまま、首だけ動かした。
「ぼくは、どうなったんですか?」夢と現実を区別しようと、頭をめぐらせる。狼のイメージと、体に感じる熱さと痛み。これらは夢じゃなく、現実だったと記憶する。でも、いろいろと曖昧で混乱してもいた。
 だから、カレンさんの言葉の意味が一瞬、理解できなかった。
「あなたはもう少しで命を落とすところでした」

 ぼくは死なない。昔から、そういう思い込みがあった。
 幼いときに公園の遊具から手を滑らせて、頭から地面に落ちたときも、怪我一つしなかった。
 大型バイクにはねられたこともあったけど、軽い捻挫と打ち身で事なきを得た。
 昔から運はあまりよくないと思っては来たけど、体の丈夫さには自信がある。大きな怪我も病気もせずに、ここまで来た。ベッドに横たわったまま、まともに身動きとれない経験も初めてのことで、正直戸惑うばかりだった。
 カレンさんの話では、ロイドとの練習試合の後、ぼくは胸骨粉砕、肋骨が何本も折れ、全身打撲で重傷状態だったそうだ。他には、多少の切り傷とそこそこの失血もあったけれど、それは自覚している。ロイドの必殺拳、天狼旋風拳(シリウス・トルネード)はぼくが思っていた以上に破壊力があったんだ。少なくとも、大型バイクにはねられる程度じゃ済まない負傷をもたらした。
「内臓破裂がなかったのが幸いです!」ぼくの傷について説明しながら、カレンさんの口調はだんだん興奮してきた。「そこまでひどければ、短時間でここまで回復できなかったわ。骨だけだったので、《気》の力で接合するだけで済んだ。それでも一時期はどうなるかと思ったけど」
「短時間って?」壁の時計にちらっと目を向けた。6時47分。「ええと、今は午前? 午後?」 窓のない部屋だと、時間感覚がはっきりしない。
「あなたの治療を始めて、7時間ぐらいです」
 その答えから、今が夜だと分かった。結局、ジルファーの課題は達成できなかったわけだ。
「たぶん、骨の損傷はあらかた復元できたはず。でも、痛みがいつまで残るかは分からないし、普通に動けるようになるまでどれくらいかも……」
「でも、怪我は治ったんでしょ?」
「あなたは怪我ってものを甘く考えすぎているわ。完治しても痛みが消えないこともあるし、体が治っても、元どおりに動かないことだってある。リハビリが必要だったり、時には恐怖心を克服しないといけなかったり、心配事は山ほどあるのよ」
 そんなものなのか? 
「ええと、《気》の力を使えば、もっと簡単に治ったりしない? 何というか……専門家なんでしょ?」
 カレンさんの目がスッと細められる。それだけの変化で、ジルファー以上の冷ややかさを帯びることに驚いた。
「癒しの技は、それほど簡単なものじゃない。私は、あなたの自然の治癒力を高めているだけなのよ。あなたが星輝士だったら、加護の相乗効果で治癒効果も高まるわ。だけど、あなたは生身の体。それなのに星輝士の拳をまともに受けたりして。自分の命を軽々しく考えないで!」
「……ゴメン」そう謝るしかなかった。
 起き上がれないほどの痛みを抱えた身では、強気になんて到底なれない。
「ぼくは、ラーリオス失格かもしれないな」思わず、そうつぶやいてしまう。「他に誰か代わりがいてくれれば……」
「何言ってるの?」カレンさんの目が大きく見開かれた。「あなたに代わりなんていない。だから体を大事にしてって言っているのに」
 あれ、そうだったか? 確か、代わりがいるって聞いたような……。
 曖昧な記憶に戸惑いながらも、自分を勇気づけるために、つぶやいた。「ぼくは『太陽の皇子』に選ばれし者。それでいいんだね」
「そう。なのに、こんな怪我を負わせたりして。ハヌマーンも、ここまで乱暴な人とは思わなかったわ。星輝士と生身の人間を戦わせるなんて、何を考えていたのかしら!」カレンさんの怒りは、どうやらリメルガに向けられたようだ。
 あの戦いは、ぼくが望んだこと。
 リメルガは……止めてくれたよな、確か。
『リングを降りるなら、そうしてもいいんだぜ。逃げたからって、誰も責めたりしねえよ』
 そうだ。その言葉をぼくは勝手に挑発と受け取り、意地になって戦いを続けた。
 こんな重傷を負ったのも、自業自得というものだ。
 浅はかさを自覚した。
「ロイドにだったら、勝てると思ったんだ。見た目だけで判断して……」
「訓練もしていないただの人間が、星輝士に勝てるものですか」カレンさんの舌鋒は鋭く、ぼくを傷つける。「その気になれば、私だってあなたを容易(たやす)く葬ることができる」
「そうだね。今のぼくなら……」
 ベッドの上で何もできない。無力な状態では、誰にも勝てないだろう。
 涙がこみ上げてきて、ぼくは首を動かして、泣き顔を見られまいとした。無駄な努力だったけど。
 しなやかな指先が目じりに触れて、そっと涙をふき取る。
「言い過ぎたわ。泣かないで」口調が優しさを取り戻していた。女の人は、どうしてこんなに簡単に切り替えられるんだろう。「怪我は必ず治してみせる。でも、約束して。もう無茶はしないって。あなたの命は、あなた一人のものじゃない。ここにいるみんなが、あなたに自分の未来を託しているの」
 託す相手を間違っている、と思ったけれど、口に出しては言えなかった。その前に、カレンさんが話を続けた。
「バトーツァさんも、相当怒っていました。ハヌマーンとシリウスを、あなたのトレーニングから外すって。ジルファーも、今回ばかりは彼の要望を呑まざるを得ないわね」
 何で? 
 ぼくは慌ててカレンさんの方に向き直った。首を動かすわずかな仕草に過ぎないのに、痛みが走る。おかげで言葉を出せるようになる前に、考えることができた。
 当たり前なんだ。教え子に負傷させたトレーナーは、管理責任を問われることになる。ぼくの怪我は、ぼく一人の問題じゃない。ぼくはそこまで考えて、自分の行動を決めないといけなかったんだ。でも……、
「リメルガの解任には、反対です」乾いた喉で、何とか言葉を絞り出す。一度、言葉になると、想いのたけがあふれ出す。「彼はいろいろ教えてくれた。ぼくがきちんと受け止めなかっただけなんだ。バァトスは、当事者のぼくときちんと話し合ってから決めて欲しい。勝手に決めるな、と伝えてください」
「……分かったわ」カレンさんは、一瞬、目を見開いて意外そうな表情を見せたものの、すぐに納得してうなずいた。「結論は保留することを提案してみる。どっちにしても、あなたが回復しないと、トレーニングもないものね」それからクスリと笑う。「さっきの言葉、バトーツァさんには伝えません。よけいにヘソを曲げそうですから」
 確かに。苦虫をかみつぶしたようなバァトスの顔が思い浮かんで、ぼくも笑みを返した。
「興奮させてしまいましたね。もう一度、お休みになりますか?」
 言いたいことがあらかた済んで、落ち着いたのだろう。カレンさんの口調も丁寧になった。
 ぼくは、もう少し話していたかった。痛みはあるけど、疲れてはいない。それに何だか眠るのが怖かった。闇に引き込まれて目覚めることができないような予感もあって、現実にしがみついていたい、と思えた。
 それでも一息はつきたくて、要望を口にした。
「あのう。水を一杯いただけますか?」

 首を動かすよりは、腕を動かすほうが楽だった。
 ぼくはカレンさんの手渡してくれたグラスを左手で受け取った。冷ややかな感触が心地よい。
 身を起こさないと上手く飲めないので、カレンさんの支えを借りた。背中に回された腕が優しく、体を起こしてくれる。自分で力を入れない分、痛みは最小限に感じられた。怪我した箇所の筋肉に力を入れることで痛みが生まれることを、ぼくは初めて知った。
 体に当たる彼女の胸の感触と、甘やかな花の香りを多少とも意識して、赤面しながら、ぼくはグラスの中の水をゴクゴク飲み干した。乾いた喉が潤って、ぼくは満足の息をもらした。
 そして気が付いた。
 手にしたグラスが、ジルファーのこしらえた氷のグラスであったことに。
 飲み水用のグラスは別だってことを、カレンさんは分かってなかったんだ。
 ふと、ぼくはジルファーの課題が未達成なことを思い出した。
 何気なく、この氷が溶けてくれたらいいのにって思う。
「キャッ」カレンさんのあげた可愛い悲鳴に、ぼくは驚いた。
 グラスが溶けて、冷たい液体がぼくの体と、彼女の衣服を濡らしていた。
 思わぬ失態に、ぼくはますます顔を熱くした。


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●作者余談(2012年1月18日、ネタバレ注意)

 ジルファー、リメルガ、ロイドとの関係を一通り描いたので、ここからカレンさんを中心とする女性絡みの話を展開しようと考えました。
 タイトルも、カレンを象徴する「フローラル・フレーバー」(花の香り)。

 そして、スーザントロイメライカレンと、本作で出てきた女性キャラ総登場という形になりますね。

 各キャラの象徴として、月、闇(影)、森という属性キーワードがあるのですが、そこから連想するのが「狼男」。前章のラストで狼の星輝士ロイドの技を受けて、狼のイメージを抱いたまま意識を失ったカートが、自分自身、狼と化して、愛する娘(スーザン)を食い殺してしまうホラー映画のイメージでスタート。
 夢を映画のように見る、登場人物の感覚は受け取るものの行動を自由にできない、という描写は、インターミッション1「ハリウッズ・ナイトメア」で描ききれなかったイメージであり、後の第3部に通じる流れの原型と言えます。

 一応、スーザンは登場しているものの、ここではただの被害者でしかない。実に扱いの悪いヒロインだと思います。
 それに代わって登場したのが、トロイメライ。本作では、ナイトメアというコードネームと併用して使っていますが、トロイメライも本名かどうかは分かっておらず、謎の女スタンス。実のところ、この時点で作者にもよく分かっていなかったりします。最初にキャラありき、ではなく、ストーリー展開の必要から生まれたキャラとなりますね。
 原案者には、メールで「トロイメライがラスボスですか?」と質問されたけれど、これにはノーと答えました。
 トロイメライを倒す役は、カートではなく、スーザンにすべき、という自分の構想があるわけですが、いつ倒されるかは未定。一応、雄輝編の始まる頃には、トロイメライは肉体を失っている設定で考えているので、いろいろ考え合わせると、「第4部」でそういう要素が描けるか、その後日譚で描くか、検討中。
 ともあれ、本作でのトロイメライの役割は、「闇への誘惑者」「ゾディアックの裏情報の提示役」「主人公の行動を促す役」となります。

 1番目の「闇への誘惑者」については、ファンタジーの基本ともいうべき、「妖艶な魔女」の役どころ。ゴシック調の光と闇の物語を目指すには欠かせない役となります。

 2番目の「裏情報の提示役」については、ジルファーたちがカートへの教育係という立場上、はっきりと示し得ないゾディアックの暗部を物語の中でさらけ出す役目ですね。3人称形式なら、「一方そのころ」という形で、主人公が知り得ない情報を読者に提示するのは簡単ですが、本作の1人称形式なら、「全ての情報を主人公に集約させて、彼の目で世界を見る」ことが肝心ですから、カートには表の情報提示役と、裏の情報提示役の両方が必要なわけです。

 3番目の「行動方針」ですが、ただジルファーの示した課題をクリアして、という段取りを追うだけだと、物語が受け身になって面白くない。だから、ジルファーの知らないところで、陰謀が張り巡らされていることをカートに知らしめて、主人公らしい行動を促すドラマを意図。
 また、ジルファーの課題に対して、何らかのヒントを(偶発的に)与えることも意図しました。すなわち、トロイメライが動くと、物語が複層化、かつ活性化するわけですね。

 だけど、カートはここでは、闇を拒絶して、夢からの脱出を図ります。

 このときの目覚めは、カート・オリバーの一生の中でも二番目に最悪だった、と思う。

 二番目に最悪、ということは、一番目は何なんだ? ということですが、これは第4部の「暴走ラーリオスとしての覚醒」を意図しています。つまり、これを話しているカートは、未来を分かっているという前提ですね。
 なお、この「二番目に……」というのを先に語っておいて、後から「一番目」を出す一種の伏線的ナレーションはお気に入り。
 『ヤング・シャーロック』という映画がありまして、ナレーション役はワトソンが務めるわけですが、物語中で「私がホームズの涙を見たのは、二回だけだった」と語るわけですね。で、一回めはさらりと流されるのですが、二回めは「ホームズの愛したヒロインの死」という場面で劇的に示される。
 こういう効果を狙ってみたのですが、2時間弱の映画の中で示されるのと違って、本作のように完結まで何年もかけていたのでは、ちっとも効果的ではありません(苦笑)。これは長期連載ではなく、短期的にきちんとまとめた作品で有効なテクニックだと考えます。どんなテクニックも、使いどころが肝心ということですね。

 そして、夢の中のトロイメライから逃れたと思ったら、現実世界ではカレンさん
 第3部のラストを知ってみると、何とも皮肉な展開。結果的に、ちっとも逃れられていないんですね、カート。お釈迦様の手の平から逃げ出せなかった孫悟空のように。

 むきだしの胸に当てられた手がピクリと動いて、彼女は青い瞳をこちらに向けた。一瞬、暗く見えた視線が明るさを取り戻した。

 はい、この表現も狙っています。
 「一瞬、暗く見えた視線」というのが、普通に読めば、「意識を失っていたカートが目覚めてくれたことへの安心感」と解釈するのでしょうけど、そこに裏の意味が込められているダブル・ミーニングという手法は、結構、好みです。
 あと、本作では、スーザンも、トロイメライも基本的に夢の中、幻想世界の住人で、手が届かない作り方ですので、肉体的接触はカレンさん担当という形になります。でも、NOVAがそういうのを描き慣れていないので、露骨な色気とかはなく、ちょっとした触れ方でドキドキ、という思春期の初心な感じを表現できたらいいかな、ぐらいに考えました。
 そして、「むきだしの胸」という表現も、これが女性ではなく男だから、表現自体には色気はないものの、ベッドで横たわっていると、女性に胸を触られるシチュエーションそのものは、自分的には男としてそそるものがあります。まあ、カレンの心理としては、ここでは治療目的だと言えるので、あくまで事務的に接しているのでしょうが、内心でどう思っていたかは……想像して勝手に萌えるのもOK。

 でも、治療目的だけでなく、実はトロイメライの思念をカートに送っていた、と解釈するのもOKですね。
 事実、「トロイメライが他人の夢に干渉できる」という設定を考えたときも、無制限に干渉できるのはなし、そこまで万能ではない、と考えました。夢に干渉するためには、そうするだけの精神的リンクなり、外部から誰かの助けを借りて、夢に通じる門を開いてもらう必要があると考えました。
 よって、トロイメライが最初にカートの夢に入るきっかけとして、カレンを利用した。具体的には、「コーンスープ」か「カレンの黄色い花」に麻薬めいた眩惑効果があって、トロイが侵入しやすくするためのマーキング効果を発動するようになっていた……ぐらいに理屈付けを考えています。まあ、本編でそこまで描写すると、いろいろ興醒めなので、あくまでそういう可能性もある、ここだけの話ぐらいに受け取ってもらえれば、と。

 幼いときに公園の遊具から手を滑らせて、頭から地面に落ちたときも、怪我一つしなかった。

 これは、自分自身の実体験です。
 しかも、2度も。
 割と小学生時代は高いところに登るのが好きな奴で、塀とかジャングルジムに登って、器用に走り回っておりました(忍者ごっこ)。手先はぶきっちょなのに、敏捷性は高かったと思います。それでも、地上での走りは遅くて、どちらかと言えば「猿」的な運動能力だったかな、と思いますね。アスレチック的な器具に飛びついたりするのは好きでした。
 で、そういうことをしていると、事故も稀にだけどあった。まあ、普通は足を滑らせても、とっさに手でつかまったりして難を逃れるのですけど、2回だけ失敗した。小2と小5の時。
 どちらも頭から落ちたんだけど、うまく受け身ができていたのか無事。子供のときは、体が柔軟だったからかもしれません。いま、同じことになると、捻挫や骨折は免れないだろうなあ、と思います。

 ベッドに横たわったまま、まともに身動きとれない経験も初めてのことで、正直戸惑うばかりだった。

 これは、2006年の年末に、左足を骨折して初めて経験した入院生活が、経験として活きています。
 怪我して動けないカートは書いていて、自分の体験を思い出しまくり、でした。
 まあ、カートは自分よりもタフなので、より重傷を負ってもらっていますが。

 あなたは怪我ってものを甘く考えすぎているわ。完治しても痛みが消えないこともあるし、体が治っても、元どおりに動かないことだってある。リハビリが必要だったり、時には恐怖心を克服しないといけなかったり、心配事は山ほどあるのよ。

 はい、これは現実に似たようなセリフで諌められたことがあります。
 まあ、幸い、日常生活を普通に送ることはできるのですけど、「走る」「ジャンプする」という行為に対して、ためらいは生じますね。
 後は、冬場に冷えてくると、怪我したところがじんわり痛みや痺れを感じるときもあって、適度にさすったり、もんだりしながら、動かすまでの準備体操を経ないと、とか。
 もちろん、年をとって体が若いときほど柔軟に動かせなくなることもあるのですが、「昔は普通にできたことが、できなくなった自分」というものを実感すると、なかなかショックです。
 でも、その分、自分の体とか、健康とか、いろいろ考えることができるようになったなあ、と。

 ともあれ、この章は、前半が「心のこと」、後半が「体のこと」をいろいろ見つめた章でもあります。

 カートのモチーフの一つに、『機動戦士Zガンダム』のカミーユ・ビダンを意識したこともあるんですが、
 TV版のカミーユは、最後に高まりすぎた感受性の結果、精神崩壊を起こす、という悲劇的なラストを迎えてしまいます。
 しかし、21世紀に入って再編集された劇場版のZでは、カミーユは精神崩壊を起こさずに済んだ。その理由について、富野監督は、「TV版のカミーユはどこか頭でっかちなところがあって、それが今の若者を先取りしていたところもあって」という趣旨で語りつつ、それに対して、「劇場版のカミーユは、日常的な感覚や、肉体的な触れ合いを追加することで、心と体を上手くつなぎ止めることができるように描いた」と。

 第4部のカートを描くにあたって、やはり物語の流れで理念偏重、心理的、霊的展開になりかねないところがあるとは思うのですけど、カートのキャラクターとしては、「地に足ついた現実感覚」や、「他人との触れ合い」みたいなことも意識できれば、とは考えています。
 現実から遊離した感覚を、どう肉体感覚に引き止めるか、まあ、性的描写なんかをやり過ぎると生々しくなりかねないので、その辺は適度に流しながら、「大人のステージに入ったカート」の人生の完結編的に、達観したイメージで書ければなあ、と思ったり。

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