3章 ジルファー その男の目は、氷のように冷ややかだった。 まっすぐ見つめられると、背筋がゾクッとして、ガクガクと震えが止まらない。 いや、これは怯えているんじゃない。洞窟の外の寒さのせいだ。 そう、自分の心に言い聞かせながら、ぼくはこの場を切り抜ける方策を検討した。 男は一人。その体躯は、当然、ぼくよりも小さく、細身。いわゆる けれども、男の放つ威圧感は、見た目以上の何かを秘めているようだ。それは、拳銃を突き付けられているような感覚。拳に収まるぐらいの小さな道具であっても、中に収められた一発の弾丸は、十分に人の命を奪うことができる。 男は武器を持っている様子こそないけど、身に付けているのは紫色の鱗鎧。古代や中世の 一方、こちらの装備は心許ない。フットボールのヘルメットとプロテクターでも身に付けていれば、躊躇なくタックルを仕掛けていたろう。あるいは、デートの時に着ていたアウトローバイカーの衣装でもかまわない。身に付けた衣装は、それだけで自信を高めてくれる。 でも、貫頭衣一枚で、何ができる? いっそのこと、衣服を脱ぎ捨てて、蛮族の戦士や、古代の剣闘士みたいに鍛えられた筋肉を見せびらかしてみるか? 想像してブルッと、身震いする。ここは熱帯や地中海の暖かさとは無縁の場所だ。蛮族がいたとしても、熊や野牛の毛皮を身にまとっているだろう。 蛮族の武器は、巨大な剣か斧、あるいはもっと野生的な棍棒。棍棒なら持っている。イスの脚を折って作った即席の武器。部屋を出るときの高揚した気分では、こんな棒切れ一本でも何とかなると思っていたのに、今にして思うと、何の助けにもなりそうにない。アクション映画のヒーローなら、たった一本の棒切れでも十分なんだろうけど。 元特殊部隊の兵士なら、あらゆる物を武器にできる。 香港映画のカンフー使いなら、こんな棒二本のトンファーを器用に振り回しながら、自慢の空手で危地を切り抜けるのだろう。 そこまでの達人でなくても、不良ロックバンドのドラマーが、二本のスティックを振り回して、ケンカしているTVムービーを見たこともある。 どうせなら、イスの脚も一本ではなく、二本持ってくればよかったな。そう現実離れをした夢想に一通り浸ってから、現実に帰る。 自分をフィクションの主人公に仮託して、現実を忘れるのはナードの発想だ。 高揚した万能感を静め、冷徹に状況を収めようとする。 カラン。 手にした棒切れを落とし、両手をホールドアップする。 「あ〜あ、せっかく逃げられるか、と思ったのにな」観察と夢想の数秒を経てから、こちらから降参の意志を示した。 「賢明な判断だ」男は、カレンさんと違い、上から目線で話しかけてくる。「部屋に戻る気になったか?」 「だって、こんな雪山じゃ、外に逃げるわけにいかないでしょ」努めて、軽い口調を心がける。「まだ、自殺に走るほど狂ってもいないんでね」先刻、投げかけられた皮肉に応じるように、嫌味を返す。 「場合によっては、部屋から勝手に出て、ここまで逃げようとするだけで、十分自殺行為と言えるんだがな」男のさらなる皮肉。こういう言い合いは、兄貴とのやりとりを思い出させる。 「そりゃどうも」適当に頭を下げてから、一言返す。「ちょっとは運動をしたい気分だったから」 「運動ね……」案の定、食いついてきた。「十分、楽しめただろうか」 「部屋から、ここまで真っ直ぐ、洞窟を抜けただけじゃあ、何の楽しみにもならない」緊張を解いて、軽く肩をすくめる。 「……本当に真っ直ぐ、だったな」男は考え込むように、右手をあごに当てて、ぼくを見据えた。「出口までの道はどうして分かったんだ? 初めての人間がそれほど簡単に抜けられるとは思えないんだが」 「そう言われてもな」こちらも腕組みして、首をかしげる素振りをした。「こっちが出口だと何となく思った方へ向かったら、たどり着いたとしか……。神のご加護でもあったんじゃないですか?」冗談めかして言ったつもりが、 「なるほど」男が納得したようにうなずいた。「もしかすると、そういう勘の良さもまた、神の子たる資質なのかもしれんな」 「ヘッ? 神の子って?」 男は答える代わりに、威儀を正すかのように膝まづき、臣下のように深々と一礼した。「先ほどは失礼を、ラーリオス様。あなたの教育係を務めるジルファーと申します。お見知りおきを」 「……よしてくれ」ぼくは、ジルファーと名乗った男の礼儀を拒んだ。「カレンさんもそうだけど、あなたたちは、ぼくを拉致したゾディアックという組織のメンバーだ。そんな連中に、訳もわからずにラーリオス様と奉られても、こっちは『はい、そうですか』と受け入れる気にはなれない。教育係って言うなら、一通り、状況を分かりやすく教えてほしい。その上で、奉るというなら、こちらの要望も聞き入れてくれると嬉しい。とにかく、見せ掛けの虚礼でいろいろごまかされるのはゴメンだ」 まどろっこしい状況をさっさと打開したいだけの気持ちで、いつになく一気にまくし立てたが、それを聞いたジルファーは腰を上げると、整った顔立ちに微かな笑みを浮かべた。 「ほう。思ったより話が早そうだ」取り繕った口調が元に戻る。「教えたいことは山ほどあるし、教え子相手に、いちいち言葉を飾るのでは、こちらもやりにくいと思っていた。ラーリオス様――いや、君が聞き分けのない生徒でなくて、助かったよ」 「そりゃどうも」上から目線で教師面をする人間は、好きになれないけど、少なくとも下から奉られるよりは、対応に慣れている。「物分かりのいい生徒かどうかは、自信ないですけどね」 「きちんと聞いてくれるなら、分かるように説明するさ。知識の伝達、それが私の専門の一つだ」ジルファーは自信満々に言ってのけた。 あ、やばい。 こういう人種は、一度興が乗ると、ところかまわず、薀蓄を延々と語って聞かせがちなのだ。兄貴みたいにメガネはかけていないが、ジルファーの細い目線も、同じ色合いを帯びているのが感じられた。人を鋭く見据え、知識の欠如を指摘できないか、と観察する視線。冷徹な研究者のようでいて、「それはつまり……」と解説する機会は決して逃さない、奇妙な熱のこもった瞳。 「あ、あの……」相手が語りだす前に、やっぱり、その場を逃れたいと思い、何かを言おうとしたとき……思いがけず、腹がグーッと鳴った。そう言えば、しばらく食事はとっていなかったような気がする。 「え、ええと……授業の前に、何か食わせてくれません?」 ジルファーは苦笑いを浮かべながら、応じてくれた。 |
●作者余談(2012年1月9日、ネタバレ注意) はい、ジルファー先生登場の回です。 『失墜』では、出てきた瞬間、暴走ラーリオスに瞬殺されるという、身も蓋もない姿を披露した彼。 登場シーンでは、名前すら決まっておらず、リメルガに「紫トカゲ」呼ばわりされ、 さらに、その名前も「パープル・リザード」の「パーとリザ」を適当にアナグラム変換して「ジルファー」という、まあ、とってつけたような名前。いや、でも、「悪魔のルシファー」っぽくて、名付けたときは気に入ってましたが。 問題は、名前が付いたときは、すでに散った後という(苦笑)。 彼のおかげで、「上位星輝士といっても大したことない」という印象すら与えかねない。そんな薄幸のキャラの汚名返上、名誉挽回を期した作品が、本作だとも言えます。 なお、ジルファーのイメージは、アニメ版聖闘士星矢に登場した「クリスタル・セイント」。 氷の技を使うメインキャラクター、白鳥座(キグナス)の氷河の師匠として登場しながら、後に原作マンガにおいて、黄金聖闘士の水瓶座(アクエリアス)のカミュが、氷河の師匠と確定。 で、アニメの「クリスタル・セイント」の扱いはどうなるかなあ? と思えば、「カミュは、クリスタル・セイントの師匠」、「師匠の師匠は、師匠も同じ」というこじつけ理論によって、以降の氷河はカミュを師匠と仰ぎ、「クリスタル・セイント」のことはあまり省みられることもなくなった、という一種のレアキャラ。 しかも、本名不明、「実力がありながらも守護星座の導きがなかったために非正規の聖闘士となった」という不遇な扱いなキャラですな。 まあ、マイナーキャラをモチーフにする方が、自分で自由に描けるというメリットはあります。 さて、『失墜』劇中で、ソラークとランツは外で見張りについており、カレンとジルファーがラーリオス(カート)のお付きになっているわけで、 カートにとって見れば、2人との接点が強かったんだろうなあ、ということで、本作のメインキャラに抜擢。 弟子を導いてみれば、弟子が暗黒面に堕ちて……という展開は、牙狼とか、スター・ウォーズとかいろいろあるわけで、そういう「哀れな師匠」のイメージもあったり。 それでも、自分が職業として教育関係に従事していることもあって、「カートにあれこれ指導する様子」は、書いていて、相当、感情移入できました。 あと、ラーリオス企画の影で、原案者にいろいろ創作指導めいたこともやっていて、フィクションと、ネット上のコミュニケーションと、リアルな職業生活の3つが互いにフィードバックした感じもあります。 そんなジルファーも、第4部では「カートに瞬殺」という運命が待っていますが、どうして、そんなにあっさりと? という理由付けも、しっかり補完しますので、「ジルファーがいかに華麗な死に様を見せるか」を書くのが楽しみです。 |