3ー10章 エクソダス 青白い月と、緑の森。 幻想的な美しさに満ちた光景は、たちどころに血塗られた場所に変わり、闇と炎に包まれることになった。 そして、世界が崩壊した。 カート・オリバーは虚無の世界を漂っていた。 (このままじゃダメだ。何とか元の体に戻らないと) ぼくは他にどうしようもなく、カートに思念をぶつけてみた。 「君は誰だ? どこから話しかけてくる?」 カートが驚きの反応を示してくる。こっちこそ驚いた。 (ぼくの声が聞こえるのか?) 「聞こえるさ。君は誰だ? ナイトメアじゃないな」 それまで、ぼくは夢の物語に干渉できない『観客』だった。向こうの声は聞こえても、こちらの声は届かない、そういうルールだと思い込んでいた。けれども、カートが虚無の世界に落ち込んだことで、ルールが変わったらしい。 (ぼくは、カート・オリバーだ) 「それは、ぼくの名前だ。ふざけるのはよせ」 (ふざけてなんていない。ぼくは未来の君だ。夢の世界を通じて、君と交信している……のだと思う)微妙に自信が持てない。過去の自分と交信した経験なんてないのだし。 「未来のぼく? 何をSF映画みたいなことを。君はナードなのか?」 誰がナードだよ。ぼくがナードだったら、お前だってそうだろうに。 そう、心の奥で思いながら、別の思念を送る。 (信じられないのかも知れないけど、ぼくは確かに君だ。そして、今の君よりはるかに多くを見聞きした。悪いことは言わない。素直に話を聞いてくれないか?) 「これは夢なのか? さっきから変なことばかり起こっている」カートはこちらに答えず、ぶつぶつ一人でつぶやいている。「タトゥイーンでジェダイの騎士になったかと思えば、夢に干渉する魔女に会ったり……。森でスーザンと再会したと思ったら、気が付くと彼女は血塗れになっていて、光になって消え失せたり……。地震とか火事に巻き込まれた挙句、とうとう未来のぼくときた。頭がおかしくなりそうだ。いや、もう、おかしくなってるのか? 夢なら、とっとと覚めてくれよ」 (夢なのは間違いないけど、今のままだと目覚めることはできないんだ)こちらが冷淡に言い放つと、 「どうしてだよ?」カートはようやく応じてきた。 頭の中の声としゃべるという状況に何とか順応したらしい。もっとも、夢という認識をもったことで、何が起こっても不思議じゃない、と割り切ったのかもしれないけど。 (ぼくたちはスーザンの夢の世界にいた)かまわず状況を認識させようとする。(君がスーザンを殺したことで、世界は崩壊し、ぼくたちは居場所を失った) 「ぼくがスーザンを殺しただって?」それを知らせたのは失敗だった。「そんなこと、有り得ない……」カートは忌まわしい記憶に苛まれて、自分を見失おうとしている。 思念こそが力を持つこの世界で、精神が壊れたらどうなるのだろう? 過去のカートに何かあれば、今のぼくがどうなってしまうのか? 試してみる気にはなれず、ぼくは慌てて思念を送った。 (ああ、今のはなし。忘れてしまえ) 「忘れる?」 (そうだ、忘れるんだ。その方が自分を守れる) 以前、トロイメライは夢の中でこう言った。『自分の都合の良いように物事を忘れたのは、あなたの心が原因よ。あなたは以前の夢で、自分の犯した過ちを嘆き悲しんだ。その重さから逃避したいと思ったのよ。だから自己防衛のために、心が記憶を封じた。少なくとも、私の分析ではそうよ』 トロイの分析は、図らずも正しかったようだ。ただ、いくら彼女でも、未来のカートの思念が過去のカートの記憶を封じるのに一役買っていたとは推測できたろうか。 ぼく自身、過去のカートと思念で会話ができることを驚いている。 すると、カートをうまく誘導すれば、いろいろ歴史だって変えられるんじゃないか? このまま過去のカートといっしょに肉体に戻って、思念を通じて、いろいろアドバイスしたらもっと楽に試練を果たせるかもしれない。 そこまで考えて、ぼくは思考実験を中断した。過去のカートはそれで良くても、今のぼくは魂を失ったまま、ということにならないか? さすがにそれは困る。それに、過去にいたずらに干渉してしまえば、タイムパラドックスの危険がある。 とりあえず、今は何よりも、過去のカートを自分の体に送り返すことが先決だ。 (おい、カート)呼びかける。 「あぁ、何だ?」カートの声はいくぶん、ぼんやりしていた。一部の記憶を封印してしまったために、状況を曖昧にしか理解できていないようだった。「君は誰だ?」 もう一度、そこから説明しないといけないのかよ。 (誰でもいい)ぼくは説明を飛ばした。(自分の肉体がどこにあるか分かるか?) 「ここにあるに決まってるだろう」 (ここにはない。夢の世界なんだから、心だけだ) 「だったら、夢から覚めたらいいじゃないか」 そこまで状況を見失っているのか。ぼくは苛立ちを覚えた。 (そう言うなら、目覚めてみろよ) カートは試みた。当然、覚めるわけがない。 「ダメだ。夢から覚めない……ということは、これは現実?」カートは頬をつねった。「痛いような、痛くないような……」 (どっちなんだよ?) 「分からない。何だか全ての感覚が曖昧で……」 これ以上、カートと喋っていても、埒が明かないと感じた。 (トロイメライの助けを求めるしかないな) 「トロイメライって誰なんだ?」 (お前は少し黙ってろ)ぼくは、リメルガがロイドを扱うように、過去の自分をあしらった。 カートに思念をぶつけることもやめ、もっと周囲にアストラルの感覚を広げようとした。トロイの気配らしきものをつかもうと、思考の波を放つ。 黒髪と黒い瞳の影をそこに感じた。 (トロイメライ、そこにいるのか?) 「誰、この気配? まさか、オリバー?」 (そうだ) 「そんなはずないわね。あの坊やが、この空間で私に交信を送ってこれるはずがない。星輝石だって持っていないのだし……」 どうやら、こっちの通信がはっきり届いていないようだ。もう少し強く思念を送る。 (カート・オリバーはここにいる) 「それを知らせてくれるなんて……あなたは誰なの?」 どう説明をしていいのか分からない。未来のオリバーと言っても信じてくれないかも。仮に信じたとしても、未来の情報をうかつに与えていいものかどうか。だから、ぼくは最低限の言葉ではぐらかすことにした。 (誰でもいい)付け加える。(今の状況を理解している者とだけ言っておこう) 「もしかして……」トロイの声が畏怖に震える。「《闇》の導き手? 《暗黒の王》?」 何でだよ。 状況を正しく認識できないことが、ここまでボケた反応を返させるとは思わなかった。たとえ、それが賢明に思えたトロイメライだったとしても。 「ふうん、そういうこと」それでも、トロイは何かを納得したようだった。「なかなか面白いわね。近い将来、そんなことが起こるだなんて……」 (何の話だ?)ぼくは、トロイの反応の意味が分からず、そう問い掛ける。 「もうすぐ分かるわ。将来の《暗黒の王》よ。今から、 (何とでも呼ぶがいい)トロイの言葉は、ただのハッタリだと思うことにした。 ぼく以外の誰かの思念を受け取ったのか、とも思ったけど、それはぼくには感じられない。 それに、スーザンもそうだけど、トロイも思いこみの強すぎるところがあるようだ。光にしても、闇にしても、何かの信念に突き動かされると、人は現実を見失うところがある。トロイにも、他の人には聞こえない闇の声なるものが聞こえ、行動を促しているのかもしれない。 だったら、それを否定するのではなく、うまく扱ったほうが賢明だ。 (とにかく、カート・オリバーは助けないといけない) 「もちろん、そうね」トロイはくすっと笑った。「あなたのためにも、私のためにも」 (君のため?) 「そうよ。スーとの約束もあるしね。オリバーは助けたい」 (ぼくの位置が分かるか?) 「ちょっと待って、 (どんな目印を作ればいい?) 「作れるの?」 (たぶん。何でも言ってくれ) 「そうね。月と森だったら、分かりやすいのじゃないかしら。闇夜に対する道標になるし、命の息吹だって感じられる」 (やってみよう) ぼくは、トロイに向けていた思念の糸を引き戻し、カートのところに戻った。 (おい、カート) 「また、君か? もう放っておいてくれ。ぼくは疲れたんだ。このまま何も考えず、楽になりたい」 (意思を強く持て。今のままだと……お前、消えてしまうぞ)深く考えて言ったんじゃない。ただ、自我が薄れている過去の自分に接すると、そんな危機感が芽生えた。 「消えたっていいじゃないか。ここにはスーザンだっていない。ぼくがいなくなっても、誰も悲しまないさ」 (そんなことはない!)ぼくは激しく叱責した。(スーザンは、お前がこんなところで消えるなんて望んじゃいない。それに、ジルファーやカレンさんだって、お前に期待している。リメルガやロイド、ランツだって……) 「リメルガ? 誰だ、それ? ロイド? 知らないなあ」 (ああ、そうだよな。お前はまだ二人に会ってないからな。すぐに会うさ。いろいろな人に会って、いろいろな経験をして、いろいろ考えて、いろいろ学びとる。それが、お前の未来だ。今のお前がしっかり生きないと、お前は未来をつかめない。欲しいものがあるなら、しっかり手を伸ばして、つかみとらないといけないんだ。腑抜けてるんじゃない) 「……ずいぶん、偉そうに説教するんだな」 (柄じゃないけどな)ハードボイルドを気取る。(言えることは、きちんと言っておいた方がいい。伝えるときに伝えなきゃ、後悔するってもんだ) 「……そんな後悔はしたくない」カートの言葉が力を取り戻した。「分かった。何でもするよ。どうしたらいい?」 (月と森を作れ) 「どうやって?」 (頭で思い浮かべればいい。イメージを具体化させるのは、ぼくに任せろ) 「よく分からないけど、月と森だね。森ならエンドアみたいなのでいいのかな?」 エンドア。『スター・ウォーズ』のエピソード6の舞台になった星だ。イウォークという小熊みたいな原住生物でファンの間では有名だったりする。 (それでいいよ) 「だったら、月は……ダメだ、第2デス・スターしか出てこない」 第2デス・スター。エンドアの上空に帝国軍が建造中の球形の要塞。物語のクライマックスは、エンドア地上での帝国軍の攻防戦と、デス・スター周辺の宇宙艦隊戦、そしてデス・スター内部での光と闇の決戦で盛り上がった。エンドアとデス・スターは、自然と人工物の対比にもなっているのだけど、確かにエンドアの空に見える星だと、ぼくの頭ならデス・スターとなるのだろう。 そもそも、エンドアには月が存在するわけがない。なぜなら、それ自体が惑星ではなく、『聖なる月』の異名を持つ衛星なのだから。後から、その設定を何かの本で知ったときには驚かされた。それまでは惑星エンドアと思い込んでいたので、ちょっとしたコペルニクス的転回の気分を味わったものだ。 (ともかく、別にエンドアの月にこだわる必要はないんじゃないか? 月ぐらい普通に想像できるだろう?) 「言われてみれば確かに……」 どうも、昔の自分は愚鈍に映って仕方ない。ジルファーはよく、こういう生徒を辛抱強く教えたものだ。改めて、彼に感謝する気持ちが湧いてきた。 「満月がいいかな? それとも三日月?」 それぐらい自分で判断しろ、と言いたい気持ちを抑えて、ぼくは満月をリクエストした。 こうして、カートが森と月を想像し、ぼくがその細部のイメージを補ったりしながら、虚無の世界に具現化する作業を始めた。 途中で、破壊的な闇と炎のイメージが侵食してきて、周囲の無に押しつぶされそうにもなったけれど、二人分の思念の力は互いのイメージの 自分の欲目かもしれないけど、愚鈍に見えるカートも潜在能力は高く、学ぶ機会さえあれば、どんどん技術を吸収する貴重な素材だということが実感できた。人を教えることで、初めて身につく視点があることも分かったし、自分を教えることで今まで気付かなかった自分の特性も理解した。これはめったにできない経験と言える。 ジルファーがカートの何に期待しているのか、ぼくにもようやく分かった。 やがて、トロイメライが降臨した。 その姿は、満月から飛来した黒い天使めいていた。黒いローブと長い髪が翼のように広がり、虚空にはためく。 「ずいぶん距離があったわね。こんなに飛ばされていたとは、思わなかったわ」 これが、森に降り立った彼女の第一声だった。 せっかく作った森や月への評価を期待したんだけど、それには触れてくれない。 「初めまして」カートが畏怖の気持ちに包まれながら、拝礼するかのように頭を下げる。 「初めまして?」トロイは、いぶかしげな表情を見せた。 (ショックで、一部の記憶をなくしたみたいだ)ぼくが思念で告げてやる。 「ふうん、そう」彼女は、ぼくにだけ聞こえるように口の中でつぶやいた。「記憶操作は望まないけど、自分でしたことじゃ仕方ないわね。後でややこしいことにならないといいけど」 「あのう、トロイメライさん?」カートが、反応の鈍いトロイに不信の目を向ける。「思い出した。確か、バァトスの師匠だとジルファーが言っていた」 「ええ、《影の星輝士》トロイメライ。ナイトメアと呼ばれることもあるけどね」 「ナイトメア、悪夢、《闇》……」カートが曖昧な記憶に苛まれるように、頭を抱える。 (お前は、ややこしくなるから考えるな)暴走しそうになる思考にブレーキをかけてやる。 しかし、カートの思考は止まらない。 「だって、この女は《闇》じゃないのか? スーザンと敵対して、ぼくを引きずり込もうとしている。その手に乗るものか」つい先ほどまでの礼儀正しさが、たちどころに消えてしまった。 「君だってそうだ。ぼくの心に入り込んで、ぼくを洗脳しようとしているのか? 未来のぼくだって? そんなはずはない。《闇》に従うなんて、ありえない!」 「これだから、記憶の消去なんて当てにならないのよ」トロイは、ぼくにささやく。「一時的な暗示で都合のいい記憶を植え付けても、ちょっとしたことで再構成され、都合のいい解釈も加わって、予測できない反応を引き起こす。後に残るのは不信と疑惑だけ。嘘や偽りで築かれた関係ほど、はかないものはないのよ」 (ああ、分かったよ)ぼくは、トロイにぶっきらぼうに応じる。(ぼくのことは、自分で何とか説得する。君はカートを肉体に戻す準備を整えてくれ) 「御意のままに」トロイは優雅に会釈した。 (さて、カート)緊張しているカートの心に思念をぶつける。(君は三つ、思い違いをしている) 「三つだって? 一体、何を?」 (一つは、トロイが君を操ろうとしている、ということだ。彼女は人の想いを尊重する。無理矢理に、自分の意に従わせようとはしていない) 「だったら君はどうなんだ? トロイに従って、ぼくにあれこれ吹き込んでいるんじゃないのか?」 (それが二つめの誤解だ。ぼくは《闇》に従っているわけではない。君と同様、操り人形にはなりたくないからね。自分の意思を大事にしているし、君にもそうあって欲しい。そのためには、自分の知らないことを毛嫌いせずにひとまず受け入れ、学びながら、自分の判断で選択できるようにならないといけない。ぼくはこれからも《闇》に従うつもりはない) 「確かなんだな」 ( 「分かった」カートは納得した。「三つめは何だ?」 (宿題だ。少しは自分で考えろ) 「何だよ、それ?」 (答えを全部、聞いて、それに従っていたら、君がぼくの操り人形になってしまう。それは望まないだろう?) 「それはそうだけど……」カートは腕組みして考え始めた。 「納得はさせられたのかしら?」トロイメライが声をかけてきた。「こちらの準備は終わったわ。いつでも帰還できる」 「三つめの誤解、う〜ん」カートは、トロイの言葉を聞いていなかった。 「オリバーの誤解は三つじゃ済まないと思うけど」トロイがぼくにつぶやく。 (悪かったな) 「最大の誤解は、《闇》に支配されると怖れていること。支配されるのがイヤなら、支配するの。あなたには、それだけの可能性があるのだから、 (それは、今する話じゃないだろう? 説得したいなら、こんな夢みたいな曖昧な形じゃなく、現実に会ってすればいい。君が筋を通すなら、こっちだって応じるつもりはある。もちろん、従えないことだってあるけどね) 「現実に会うというのは、私の立場では難しい要求ね。いずれまた、そのうち、方法を考えるわ。今のオリバーは、あなたみたいに聞き分けがいいわけじゃないし。時間を置く必要があると思う」 (そうだな。時機というものがあるんだろう。性急すぎるのはよくない。理解には相応の時間もかけないと) 「分かった!」突然、カートが叫んだ。「これはやっぱり夢で、現実には何の影響も与えないっていうことだ。《闇》とか、ぼくがスーザンと戦うとか、そんなのは全部、夢の話。そういうのを真に受けて信じ込んでしまったのが、ぼくの最大の思い違いだったということで。さあ、現実に帰るぞ。こんな変な夢とはおさらばだ」 トロイメライが、くすりと笑みを浮かべた。「確かに、今は時機ではないわね。イヤなことは全部、忘れてしまうのが心の安定には必要。いずれ、思い出すのは分かったんだし」 (ああ、いずれな) 「それでは帰還するわよ」見慣れた五芒星の転送円が描かれた。ぼくとカートはトロイの誘導に従って、それを通って……カート・オリバーの夢はそこで終わった。 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ じわりと涙とともに、目が覚めた。 どうして自分が泣いているのか、よく分からなかった。 何か大切なものを失ったような、そんなもどかしい気分を、ぼくは味わっていた。 ぼんやりした頭で、自分の手にした物を見つめる。 紫色の花。今回の夢の旅の契機に使ったトロイメライの象徴。 左腕には、力の源である星輝石も装着されている。 それらの品々を確認して、ああ、ちゃんと戻ってきたんだ、と実感する。 最後の場面で、過去のカートといっしょに転送円をくぐったのだから、間違えて過去のカートの体に戻ってしまっていたら……と思いつく。 もう一度、リメルガたちとの対面から始まって、 ジルファーの氷のグラスの試練にあれこれ悩み、 ロイドとの練習試合で負傷し、 カレンさんのコーンジュースなんかもヒントにしながら、 《気》の力の習得に至るまでの出来事を再体験するのは、懐かしい気持ちもあるけれど、さすがに同じことの繰り返しはうんざりだった。それよりも、自分で一歩一歩、未来に向かって歩んでいるという感覚の方が望ましい。 過去の自分がいるからこそ、その結果として現在の自分がいる。 現在の自分が歩み続けるからこそ、その結果として未来の自分が形作られる。 真実を知るために過去の記憶の迷宮に入り込みはしたけれど、そこからしっかり脱出できて、未来を目指せるようになったのは、いいことだ。 失ったものは何もない……はず。 それなのに、涙は止まらない。 理由を考えているうちに、思い当たった。 真実を知ることで、ぼくは『スーザンとの愛情に満ちた恋人関係』が、幻想に過ぎなかった事実を突きつけられた。これは一度、ぼくの心を崩壊させたほどの衝撃だ。 今のぼくは、その事実をどう受け止めたらいいんだろう? 「これはやっぱり夢の話」ぼくは過去のカートの言葉を反芻した。「そういうのを真に受けて信じ込んでしまったのが、ぼくの最大の思い違い。現実とは違うんだ」 そう考えると、気分は楽になった。イヤなことは、全部、夢だったことにして、忘れてしまえばいい。現実逃避に過ぎない、と分かっていても。 大体、この夢は一体、何だったんだ? 夢だから不自然なところをあれこれ挙げつらっても仕方ない、と思うんだけど、気になることはいろいろある。 たとえば、最初から最後までカートの視点で進んだなら、それはカートの夢の記憶なんだろうと納得できる。けれども、シンクロシアとの戦いの辺りからおかしくなった。いろいろな意思が混同して、物語としては筋が通っていても、いかにも『誰かの意思で人為的に構築されたもの』という感覚が抜けない。 可能性があるとしたら、それはトロイメライだ。彼女が、今のぼくを信用させるために、ぼくの夢の記憶の中に彼女の視点を挿入し、彼女の正当性を訴えるような内容に構成し直した、ということも考えられる。 けれども……どうして、そういう手間の掛かることをするのか説明できない。無理矢理の辻褄合わせにはなっていても、そもそも、ぼくがその夢に接触しようと思わなければ、意味のない罠じゃないか。そのような確実性に欠けることを、トロイメライが行なうとは思えない。 他にも、過去の自分が、今の自分と交信したのはどういうことか? という疑問がある。もちろん、過去の自分は夢の内容の多くを忘れていたのだから、ぼくと交信したことだって覚えていない。けれども、仮に夢の中で、このような時空を越えた接触が可能になるのなら、今後、未来の自分がぼくに接触してくることだって有り得る話になる。 過去の自分は明らかに『 そのような知恵ある視点を得られる機会は、大事にしないといけないが、未来の自分が過去の自分の運命に干渉し、規定するのは許されるのだろうか。そのような時間を越えた干渉ができるのなら、未来の自分は神にも匹敵するのではないだろうか。 ここまで考えすぎると、大抵は頭を休めたくなり、眠くなったりするものだ。 けれども、夢の世界から帰還したぼくは、今さら眠りを必要としなかった。それよりも、体を動かしたくて仕方ない。体を動かせば、少なくとも現実を感じることができる。 ぼくは何よりも、崩壊した精神の世界を修復するために、自分の核を再確認したかった。 だから、深く考えることもなく、携帯電話を革ジャンの内ポケットに入れた。たとえ、スーザンがいなくなっても、この中に入った歌や音楽はなくならない。 『がんじがらめの鎖に縛られても、決してあきらめないで。運命なんて打ち破れ』 サミィ・マロリーの歌を口ずさんでから気付く。サミィも確か、星輝士だ。それも月の陣営に所属する。いずれ、彼女とも戦わないといけないのだろうか。 ぼくが自分の世界を保つためには、やはり戦いそのものを止めないといけないのだ、ということを確信する。 真実の追求、そして戦いの阻止。この二つが自分の行動原理なんだ。 そのために、何ができるのか。 まずは、夢で知った情報が本当なのか、確かめておきたい。夢は考える材料にはなるけれども、絶対の信を置く根拠にはなり得ない。あくまで考えを進めるヒントぐらいにすべきで、現実の証拠を求めないのでは、ただの妄想家だ。 カート・オリバーは、どこまでも地に足付いて、現実を大事に生きていく。この核は崩れていない。 夢の真偽を確かめるには、やはりトロイメライや、スーザンと直接、会わないといけない。スーザンと再会する、というぼくの目的は、変わらないわけだ。ただ、それが最終目的ではなく、真実を確かめるための手段に置き換わっただけで。 スーザンと会って、どうするか? 戦いを止めるように説得するのか、それともランツの言うように、戦った末に戦闘不能に追い込んで、ぼくの想いを受け入れさせるのか? そもそも、ぼくの想いって何だ? 魅了の術で作られた偽りの愛じゃなかったのか? それでも、なお、スーザンにこだわり続けるのか? 考えすぎると、こんがらがってくる。 混乱するために考えているんじゃない。行動するため、だ。 考えるのは、どんな行動をとるか、だけでいい。 トロイメライや、スーザンに会う。そのための方法だけを考えて、ぼくは行動に移った。 部屋の扉を開けると、そこにはロイドがいた。 「あ、リオ様」これまでの深刻な悩みを解消するかのような、甲高い無邪気な声。ほっとする気持ちと、うんざりする気持ちの両方を一度に感じる。 「何で、ここにいるんだ?」気持ちを出さずに、冷静にたずねる。 「門番の任務ですよ。ジルファーさんに命じられたんです。イヤな予感がするそうで、しっかりリオ様の警護をするようにって」 「警護ったって、何から守るって言うんだ? 敵が侵入してくるわけでもないだろうし」 「リオ様、それは油断ですよ」ロイドが真面目な口調で言った。「悪はいつ、どのような陰謀を企んでくるか分からないのです。要人を抹殺するための潜入工作なんて、よくあることじゃないですか」 よくあることねえ。それはフィクションの話だろうに。 「悪って何だ?」何とはなしに聞いてみた。「君にとって正義って何なんだ?」 「正義は簡単です」ロイドは答えた。「悪を倒して、人類の自由と平和を守ることです」 単純な答えで、いかにもロイドらしいと思えた。「だったら、悪とは?」 「悪は悪ですよ。人類の自由を脅かし、暴力で傷つける行為でしょ?」 「それなら、悪の目から見たら、正義もまた悪ということになるな。悪の自由を脅かし、暴力で傷つける行為になるんだから」 「それは屁理屈ですよ、リオ様。正義の暴力は、肯定されるのです。悪がのさばると多くの人が不幸になるから、人を守り、悪事を止めるための暴力は必要なんですよ。警察や治安維持のための軍事力は肯定されるべきでしょ?」 「だったら、行き過ぎた正義の過剰な暴力は、誰が止める?」 「そうですね。正義は自分の暴力を自分で抑えられないといけません。自制のための精神力が大事ということですね。星輝士って、そういう精神性を重んじるんじゃなかったですか?」 「確かにな」このままだと堂々巡りになりそうなので、適当なところで結論を出すことにした。「自分の意思で暴力を抑えることが大事だよな。参考になった」 「どういたしまして」 「ところで、リメルガは?」少年と大抵いっしょにいる巨漢のことをたずねる。 「トイレですよ」 「ぼくもトイレだ」 「一人で行けますか?」 何で、みんな同じことを聞くんだ? ぼくがそんなに一人じゃ何もできないように見えるのか? 「当たり前だろ。すぐに戻るから、付いて来なくていいぞ」かすかな苛立ちを込めて、そう答えた。 たぶん、ジルファーはロイドを、敵ではなく、ぼくの監視に付けたのだと思う。 シンクロシアとの戦いの事実を知ったぼくが、逃げ出したりするんじゃないかと疑って。 余計な気を回したものだ。 ぼくは逃げない。むしろ可能なら、シンクロシアのところに一人で乗り込んでもいい、と思っている。戦うためではない。話し合いのために。 ぼくがラーリオスの力を手に入れてしまえば、もはや話し合いの機会はないかもしれない。力を持った者同士、激突することになり、そこに多くの関係者を巻き込むことになる。 星霊皇の選抜のために戦いが必要なら、ぼく一人を犠牲にすればいい。元々、スーザンのために死ぬ覚悟だってあった。それでも、むざむざ死ぬつもりもない。話し合いの末に、他に解決の方法もない場合の覚悟だ。別に自殺願望を持っているわけでもないし、犬死になんてもってのほかだ。 ぼくはトイレに行かず、別の通路を曲がった。その先には、トイレと同じように澱んだ空気が感じられる。自分で足を運んだことはないけど、そちらに罪人を捕らえるための独房が設けられていることは知っていた。 ぼくの目当ては、トロイメライの弟子にして影の神官バァトスだった。 重々しい鉄の扉に、格子のはめられた小さな窓。飾り気のない、いかにも典型的な独房と思われる部屋に、バァトスは捕らえられていた。 ぼくのせいだ。 多少とも後ろめたい気持ちに駆られながら、扉をノックする。 「おお、ラーリオス様ですか。いずれ来られるとは思っていましたが、まさか今夜とは」扉のそばに近づいて、顔を見せた神官殿は、思ったより元気そうだった。もう少しやつれているかと思ったけど、元々が髭面の骸骨めいた容姿のため、変化がよく分からない。「やはり、星の異常を感じられましたか?」 「星の異常? 何の話だ?」 「いや、気付かれていないなら、私の気のせいなのでしょう。しょせんは星輝石を奪われた者の言い分ですからな。神経過敏になっているのやもしれませぬ。それより……ずいぶん、やつれた感じですな」バァトスは、いかにも心配そうな表情をしてみせた。「察するところ、星輝石の力を使い過ぎているのでは? 星輝士なら石の力が身体能力も高めてくれるので、消耗は最低限に抑えられますが、あなたの場合は、まだ星輝士ではないので、常時、石の力を携帯しているのは危険と存じますが」 「そうみたいだね。使わないときは腕輪を外していた方が良さそうだな」ぼくは左腕を示した。「星輝石にはいろいろ助けられているけど、ドーピングは体に良くない、と」 「もちろんですとも」バァトスの瞳が星輝石に引きつけられる。「今からでも、私めがお預かりしましょうか。ラーリオス様の健康状態は、常々心配していたことでして」 「今はいい」 「だったら、夜、寝るときでも外されては? やはり眠りは安らかでないと」 「寝るときに加護がなければ、君の師匠に何をされるか分かったものじゃない。それとも、こちらが無防備になる時間を作ろうという魂胆か?」 「ととと、とんでもない。私はただ、ラーリオス様の健康を気づかう一存でして……」 「猿芝居はやめようよ、バトーツァ」ぼくは視線に力をこめて、神官殿を見据えた。「ぼくはトロイメライに会いたい。夢の中ではなく、直接にね。どうすれば接触できるのか、教えてほしい」 「そう言って、我が師までも捕まえようとする企てですか?」バァトスの表情が、本人なりに取り繕ったにこやかさから一転して、厳しい顔つきに変わった。「ラーリオス様、あなたは信用なりませんからな。我が師はあなたの可能性を期待しているようですが、私にとっては、なぜ、そこまで肩入れなされるのか分かりません。つい先日まで、 「口をすべらせたようだな」ぼくは、にっこり微笑んだ。「《暗黒の王》という言葉は、他の人に聞かれるとまずいんじゃないのか」 バァトスは、しまったという表情を浮かべた。この男もランツと同じで、隠しごとのできないタイプらしい。ランツはまだ、それを自覚しているので正直な戦士として生きているけど、バァトスは自覚せずに、自分が賢明な陰謀家だと思いこんでいるので、失態も多いのかもしれない。 「え、ええと、ラーリオス様。このことはくれぐれも御内密に……」 「う〜ん、ぼくは視野のせまい子供だからなあ。御内密にと言われても、そういう判断はできかねると思うよ」 「そう、おっしゃらずに。我が師との交信ですか? できますとも。その左腕の星輝石をちょっと貸していただければ、すぐに手はずを整えます。さあ早く」鉄格子から骸骨のような腕を伸ばして、ぼくの左腕に触れようとしたので、慌てて引っ込めた。 「ちょっと待て」ぼくは釘を刺した。「そこまで性急に話を進めようとは思っていない。用件はもう一つある」 「何なりと」バァトスの態度は、日頃の神官らしい秘密めかした態度から、お得意先と交渉する商人の軽々しさに変わっていた。これはこれで、うかつに信用できない。 「お互い、秘密を大事にできる人間だよな」声を潜めて確認する。 「こう見えても、影の神官ですからな。秘密を扱うのは得意中の得意です」表情と言葉の内容は生真面目なのに、その軽い口調からは秘め事を語るのがいまいちはばかられる。影の神官なら、もっと重々しく威厳をもって話せばいいのに、一度舌が回ると、どんどんセリフが出てくるのは、この男が役者上がりだからなのか。 「転送円を使ってほしい」ぼくは、慎重に言葉を発した。 「転送円ですか。いずこへ向かわれるおつもりで?」 ぼくは覚悟を決めて言った。「シンクロシアのところだ」 「そ、それはいけません!」バァトスは金切り声を上げた。 「静かにしろ」厳しい目でにらみつける。 「……そ、それはいけません」小声で言い直す。わざわざ言い直さなくてもいいのに、変なところで律儀だったりする。 「シンクロシアと会って、儀式の戦いを回避できないか、話を付けるつもりだ」 「不可能です。殺されますぞ」 「覚悟の上だ」 「規則に反することなのです」 「《闇》の力を扱う人間が、今さら規則など口にするか」 「い、いや、しかし……」 「いいか、バァトス」ぼくは辛抱強く言った。「これは交渉ではない。命令だ。ラーリオスとして、あるいは、君の師が言うところの《暗黒の王》の命令と受け取ってもいい」 「まさか、そのようなこと……わ、ワルキューレ殿やパーサニア殿には打ち明けたりは?」 「どうして、カレンさんやジルファーに知らせないといけない? シンクロシアとの話し合いなんて、反対されるに決まっているだろう」 「むろん、そうでしょうとも。私だって反対いたします。リスクが大きすぎます。御身にもしものことがあれば……」 「バァトス、君がぼくのことをそこまで心配してくれるのは意外だよ」皮肉っぽく言い放つと、 「正直に打ち明けますと、私はあなたのことを心配しているのではございません」バァトスはこちらに負けじと、にらみ返して来た。「尋問の席で看破されたように、私めの忠誠はあなた様よりも、我が師トロイメライの方に重点を置いております。師があなたに可能性を見い出したからこそ、私もあなたに忠誠を誓うつもりなのです。あなたが師の益になる行動をとるなら、ご協力いたしましょう。そうでない場合は、全力をもってお手向かいいたす所存です。現時点で、シンクロシア様との対面は、師の計画に入っていません。それゆえ、あなたの身勝手な独断には、断固として否と申し上げます」 この男が、これほど決然とした物言いをするとは意外だった。 牢から出すことを条件にすれば、ほいほいとこちらの提案に乗ってくると思ったのだけど、早計だったかもしれない。 「君にとっては、トロイメライの命令が第一と言うわけか」確認するように言う。 「もちろんです。師を裏切るわけにはいきません」 「トロイがスーザン……シンクロシアの術の師匠だというのは本当のことか?」ぼくは違う角度から質問してみた。 「どこでそのようなことを?」バァトスは心底、驚いたようだ。 「ぼくを侮るな。それぐらいの情報は、簡単に手に入る」 「おおかた、パーサニア殿ですかな」ジルファーのことを口に出されたので、少し苛立ちを覚える。ぼく自身の力で手に入れた情報でさえ、ジルファーの功績にされてしまうのか。 「事実の裏づけをしたい。トロイがシンクロシアの師ということは、君にとってもシンクロシアは妹弟子ということになるんじゃないか」 「少し違いますな」バァトスは神妙な表情を浮かべた。「私と師は、社会的な契約関係。一方で、シンクロシア様の方はもっと個人的な関係と察します」 「どういう意味だ?」 「そうですな。あなたのような学生で分かりやすいたとえを考えるなら、私にとって師は学校の教師となりましょうか。正確にはより密接で厳格な関係なのですが、そこには親密さよりも能力への敬意が優先されます。私が無能なら、師に見捨てられてもやむを得ないことでしょう」 「とっくに見捨てられているんじゃないか?」皮肉っぽく言ってやる。 「そ、そそ、そんなことはありませんぞ!」バァトスがむきになる。「たとえ、このように投獄の身であろうと、師は私を気に掛けております。間違いありませんとも!」 「どうして、そう言える?」我ながら意地悪な聞き方をする。 「師とは連絡を……って、これは何かの誘導尋問ですかな? 油断も隙もない」 「つまり、シンクロシアとトロイは、姉妹みたいな親密な付き合いをしてきた、ということでいいんだね」 「そこまで分かっているなら、私に聞かなくても……師とシンクロシア様の個人的な人間関係は、私にも踏み入りにくい領域なのです。想像や妄想はいろいろ湧き上がるのですけどね」そう言いながら、ニヤリと笑みを浮かべる。 「何の話だ?」 「お分かりになりませんか? ラーリオス様も、純情なお子様のようですな。信仰で結ばれた姉妹関係にも、いろいろあるのですよ」 バァトスの言っている意味が、ぼくには本当に分からない。信仰で結ばれた姉妹関係と言っても、トロイメライは星王神を信じているわけではない。 「とにかく、シンクロシアが殺されることを、トロイは望んでいない。それは間違いないのだろう?」 「ええ、ついでに、ラーリオス様が殺されることもね。だから、あなたが愚行に走ることがあれば、私はそれを止めるべき立場なのでございます」 「どうやって、止める気だ?」ぼくは苛立ちを隠さなかった。「星輝石を持たない身で、どうやってぼくを止められる?」 「……力を得て、慢心されているようですな」意外なことに、バァトスは気遣わしげな目を向けてきた。「自分に自信を持つのはいいことですが、力に溺れて自分を見失うのは危険です。破壊と暴走に至る精神性の欠如は、戒めていかないと」 「意外だな」ぼくは言った。「《闇》の使徒が精神性などとは……」 「我らが望む《暗黒の王》とは、理性を喪失した破壊神ではございませぬゆえ。賢明に力を制御し、知恵と策を兼ね備えた覇者でこそあるべき。ただ暴れるだけの野獣でかまわないのなら、遠回しにあれこれ考えなくとも、単純に心を壊して殺戮機械に仕立てあげればいいこと」 ぼくは、夢の中で暴れる獣人ラーリオスのことを、また太陽の星輝石の見せた闇と炎の魔神の姿を思い出した。あれらは《闇》の産物だと思い込んでいたのだけど、バァトスの言葉を信じるなら、そうではないと言うのか。 「《闇》は破壊を望まないと?」 「力を制御できていれば」バァトスは断言した。「あなた様にそれができるかは、いささか怪しいものでございますが。シンクロシア様と一人で話し合うなどと愚行を考える辺り、与えられた力を過信して、現実を見失っているようにしか思われません」 「ぼくの考えが愚行なら、封印された《闇》の解放とやらも愚行じゃないか? リスクの大きさを考えるなら、だけど」 「《闇》は放っておいても、時が来れば自然と全てが解放されますよ」バァトスはもはや秘密を隠そうとはしていなかった。「我らは、《闇》を制御できる形で小出しにしていくことで、大きな破壊を避けようとしているのです。それには慎重さを要する。暴走するような王は求めていないのです。愚かな王もね」 「……すると、話し合いはここまでみたいだな」ぼくは、バァトスの説得をあきらめた。少なくとも、この男に転送円を使わせて、スーザンのところに一人で行くという計画は考え直さないといけないようだ。 「あなた様が愚行をあきらめない限りね」 愚行、愚行、としつこく繰り返されて、ぼくは苛立っていたのだろう。 「愚行をあきらめるつもりはないよ。君でダメなら、他の手を考える」意地を張ったのか、そう言い返す。 「それならば、私の方もお止めします。今から、大声を上げて、ワルキューレ殿をお呼びするとしましょう!」バァトスの言葉は決然としていた。 「カレンさんを呼んで、秘密を洗いざらい喋るつもりなのか?」ぼくは心底、動揺した。「まさか……」 「ラーリオス様を止めるためなら、それぐらいはいたしますよ」 正気なのか? ぼくはバァトスの目を正面から見つめた。 そして、その血走った目に、確かな意志を感じた。 「喋るな!」ぼくはそれに負けない強い意志を込めて、バァトスに命じた。 神官は口を動かしたが、発声はされなかった。すぐに自分が言葉を封じられたことに気付き、驚きの表情を浮かべる。ま・さ・か……と口の動きと、目で訴えかけてくる。 まさか、だった。 ぼくは、星輝石の力で、神官殿の言葉を封じ込めることに成功したのだった。 もはや話し合いが不可能だと悟り、ぼくはそのまま彼の独房を後にした。 神官との話に時間を掛けすぎたようだ。 自室に戻ろうとすると、途中でリメルガとロイドが待ち構えていた。 「リオ、どこへ行っていたんだ?」リメルガが厳しい表情で、ぼくをにらみつけて来る。「トイレじゃないな? そんな出まかせを口にして、一体何をしていたんだ?」 その言葉は、ただの質問なのかもしれなかったけど、十分に脅威を感じさせた。リメルガの 「ぼくが何をしていたか、君たちに話す必要があるのか?」自然と反抗的な言葉が口に出る。「そこまで、ぼくは監視されないといけないのか?」 「おい、リオ……」リメルガはこちらの態度に一瞬、唖然としたようだ。「何があった? いつものお前らしくないぞ」表情を和らげて聞いてくる。 いつものぼく。それはつまり、従順さのことか? 望まぬ運命に投げ込まれて、それでも文句も言わず、状況に流されていくだけの、意思を持たない操り人形みたいなぼく? 「まるで、『がんじがらめの鎖』だね」サミィ・マロリーの歌詞が思わず、口から出る。「みんながぼくを縛りつけようとする」 「何を言ってるんだ、お前?」 リメルガの言葉を無視して、ぼくはロイドに声をかけた。 「人間の自由は大事だよね、ロイド。自由を脅かすのは悪だって言ったよね」 「え、ええ、言いましたけど……」唐突に話しかけられて、微妙に言いよどんだ答え。 気にせず、ぼくは言葉を続ける。 「だったら、リメルガにも言ってくれ。ぼくの自由を脅かすなって」 「おい、何の話だよ? 自由を脅かすって?」リメルガは話の流れについて来ていない。「リオ、今夜のお前はおかしいぞ。疲れているんだろう、ゆっくり眠ったらどうなんだ?」 「眠って、何もかも忘れるのか。そうして思考停止している間に、ぼくの手の届かないところで事態が動く。そうしろと言うのかい、リメルガ」 「何を、ややこしいことを言ってるんだ? オレはただ、疲れているなら眠れって言っただけだぜ。オレたちはお前の警護を頼まれた。お前がじっとしてなきゃ、仕事が増えるだけだろ。文句があるなら、紫トカゲに言ってくれ。オレだって、夜はゆっくり眠りたいんだ。眠れるものなら、こっちが代わりに眠りたいぜ、まったくよ」 「だったら、眠ればいいだろう」ぼくは言い放った。「ジルファーに見張りを頼まれた? だったら、ラーリオスの名前でその命令は取り消すよ。眠りたいなら、眠ればいい。ラーリオスが命じる。眠れ!」 「お、おい、何を?」リメルガが頭を押さえる。「リオ、てめえ、何をしやがった?」突然の睡魔に襲われて、巨漢の兵士は抵抗できず、その場で崩れるようにドサリと倒れた。 「リメルガさん?」ロイドの声が通廊に響く。「リオ様、これは一体どういうことです?」 ぼくも動転していた。 神官を黙らせたときと同じように、ぼくは術を使ってリメルガを眠らせた。細かい操作や意識の集中はともなわず、勢い混じりの言葉と、一瞬の強い意志だけで成し遂げたのだ。 星輝石が過敏に反応し過ぎたのか。 ぼくの《気》を扱う技術がそこまで高まっているのか。 それとも、単に力が暴走しているのか。 いずれにせよ、ちょっと思うだけで術が発動してしまう状況は危険すぎる。これじゃ、うかつに物を考えることだってできやしない。 「星輝石ですか?」ロイドも状況を察したようだ。「腕輪を外してください。力が制御できていない。少し落ち着いて……」 「落ち着いているさ」ぼくは大きく深呼吸したあとで言った。「リメルガはただ眠っているだけだろう? 本人が眠りたいと言ったんだ。寝かせておけばいい。それより、ロイド、君はどうしたいんだ?」 「どうって何?」 「君は前に言ったよね。『ゾディアックが悪事を為すなら、ゾディアックから脱走する』って。ぼくも今、そうしたいと思っている」 「そんな、リオ様。ゾディアックがどんな悪をしていると言うんですか?」 「一人の女の子に戦いの宿命を押し付け、ぼくに彼女と戦えと強要している」きっぱりと言った。「ぼくは彼女と話し合いで解決したいと思っている。しかし、ゾディアックはそれを許さない。ぼくか彼女のどちらかに犠牲になれ、と言うんだ。これは正義なのか?」 「ジルファーさんや、カレンさんは何て?」 「二人はぼくに、 「そういうことなら、ぼくも協力します。少し落ち着いて考えましょう」 「だったら、君もいっしょにゾディアックから脱走してくれるかい?」 「それは……」ロイドの表情が揺れていた。悪の組織から脱出して戦う仮面のヒーローの話を嬉々として語っていたけれども、いざ、自分がそうしろと言われてみれば、やはり迷う気持ちも生じるのだろう。 その結果、「ダメです」とロイドは言った。「ゾディアックには恩義もありますし、何よりも、ぼくの夢をかなえてくれるんです。少し不満があるからって、捨てることはできない。問題があるなら逃げ出すよりも、むしろ中に残って改革することを目指します。リオ様も、そう性急に事を構えず、みんなで一度しっかり話し合いましょうよ。一人じゃ思いつかないことも、みんなで考えれば、いい解決策が出るかも知れないじゃないですか」 「なるほど。君は 「そうですね。なるなら、 「動くな!」ぼくは急に表情を引き締めると、意志の力を解放した。ロイドの行動は容易に封じられた。 「リ、リオ様?」 「ロイド、君とぼくとは立場が違う」冷たく言い放つ。「ラーリオスの責任は、遊びじゃないんだ。そこには、光と闇の果てしない 「ま、待ってください、リオ様」ロイドは動けない体で、口だけは何とか訴えようとした。 「静かにしてろ!」ぼくはそれ以上、騒がれる前に命令の言葉を放った。 巨漢の兵士は眠り、機敏な少年は金縛りにあっている。 言葉だけで、ぼくは二人の星輝士を無力化させることに成功した。 その気になれば、二人を殺害することさえできたろう。腕輪に収納したスキーのストックを取り出し、鋭利な先端部で心臓なり喉元なりを突き刺してやればいい。 もちろん、そんなことはしない。別に二人の命を奪いたいわけじゃないのだし。ただ、ぼくの行動を邪魔してほしくないだけ。 それでも、星輝石の力を十分に使いこなして二人に勝った自分を、誇らしく思った。やりようによっては星輝士すら倒せる。 これで、ラーリオスの力を手に入れた暁には……と考えた途端、闇と炎のイメージがまたも脳裏をよぎる。 ダメだ。 今の状態で《太陽の星輝石》は危険すぎる。 沈黙や眠り、金縛りの効果だけだったから良かったのだ。おかげで、ぼくは誰一人殺さずに済んでいる。けれども、より強力な力ともなれば、発動は慎重に制御しないといけない。ちょっとした言葉一つで相手の命さえ奪ってしまうのなら、そのような力は呪いと変わらない。 「まずは、自分の感情を制御できるようにならないとな」ぼくはつぶやいた。言葉にすれば、それが実現できることを願いながら。 そのとき、不意に頭痛と息苦しさを覚えた。周囲の闇にぞっと寒気を感じる。 視界がかすみ、思わず膝まづいてしまった。 『星輝石の力を使い過ぎているのでは? 星輝士なら石の力が身体能力も高めてくれるので、消耗は最低限に抑えられますが、あなたの場合は、まだ星輝士ではないので、常時、石の力を携帯しているのは危険と存じますが』 神官殿の言葉が、頭にガンガン響いた。 どうやら力の使いすぎで消耗してしまったようだ。 どうしたらいい? 左手が勝手に動いた。 眠りに就いているリメルガのたくましい体に触れる。 そこから力の波動が体内に広がってくるのを感じる。 すぐに体調が回復した。しかし……ぼくは自分の行為におぞましさを覚えた。 リメルガから精力を吸収したのか。 これじゃ、まるで生者の命を吸い取る 体調は持ち直したのに、にわかに吐き気を覚えて、ぼくはふらふらとその場を立ち去った。 辺りの闇がひたすら恐ろしく、息をあえがせながら、ただただ新鮮な空気を求める。 墓場のような暗い洞窟から抜け出すことだけが、自分を取り戻す道だった。 |