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プレ・ラーリオス

夜明けのレクイエム(3−17)


 
3ー17章 フォーリン・ダークネス

 暗闇の中で、ぼくは目覚めた。
 いろいろなものが心から抜け落ちた喪失感。
 まずは横たわっていた身を起こそうとすると、全身に痛みを覚え、思わずあえぎ声を漏らす。
 自分の発した声が、闇の中に現実感をもたらす。
 痛みの多くは、肉体を酷使した後の筋肉と関節のものだった。
 スポーツ選手だから、そういう痛みには日頃からなじみがある。手でもんだりしながら、適度にほぐしてやればいい。
 ゆっくり身を起こしてから、右肩を回す。
 やっぱり凝っているな、と感じたので、左手でほぐそうとして……違和感を覚える。
 手首から先の感触がない。
 急に自分の体が自分のものじゃないような恐怖にとらわれ、再びあえぎ声が漏れ出る。
 いろいろと記憶が蘇ってきて、気持ちが落ち着くまでに、多少の時間が掛かった。
「夢じゃなかったんだな」事実を理解して、一言つぶやいた。
 猛々しい《炎の星輝士》と戦い、左手首を切り落とされたことは現実の結果として、体に刻み込まれている。
「ライゼル?」何となく、自分の心の奥に呼びかけた。
 反応はなく、ぼくの言葉はただの独り言に終わった。
『あばよ』
 記憶の中のライゼルの最後の言葉を思い出す。
 そう、あの男はぼくと共に戦い、自分の始末をきちんと付けて、去って行った。
 ぼくの中に、ライゼルはいない。ただ、記憶だけが残るのみ。

 記憶。
 長い夜だった。
 闇と混沌に翻弄され、何とか光と秩序を見い出そうとした夜。
 しかし、戦いは開始された。
 ぼくはそれを止めるどころか、自らの意志で火蓋を切ってしまったのだ。
 戦いの中で、ぼくはいろいろなものを失った。
 左手首と携帯電話、どちらも自分の一部と言っていい、かけがえのないもの。
 そして、力の源である星輝石。
 それらを失った代わりに、何を得たのだろうか? 
 仲間の絆?
 戦いに臨む戦士の覚悟?
 みんなの期待に応える王の自覚? 
 そうした目に見えない想いは、今も残っているのだろうか?
 一時だけの、熱に浮かされた感情ではなく? 
 闇の中で、とりとめのない気持ちに苛まれることに耐えられず、ぼくは光を求めた。
 部屋に仕掛けられた明かりが、ぼくの意思に応じて灯る。
 機械ではなく、星輝石の技術を応用したものだと聞く。最初は意思の使い方がよく分からず、点灯や消灯は人任せになっていたけど、いつの間にか、自分でできるようになっていた。
 そう、自分の意思さえはっきりしていれば、闇を追い払い、光を灯すことなんて、いかにも容易いことのように思っていた。
 だけど、それは表面的なことでしかなく、目に見えない心の闇、恐怖や不安、絶望、そして……大切なものを失った寂しさというものは、じわじわと内面に巣食い続ける。

 闇をはらうべく、ぼくは光を取り込もうと深呼吸をした。
 暮らし慣れた自分の部屋。
 窓はないけど、不思議と空気はよどんでいない。
 いつしか心安らぐ場所となっていた。
 温かい思い出の数々。
 ここで学習し、力を得て、ぼくは外の世界に踏み出した。
 そして、闇に直面し、いろいろと失うことになる。
 再び目覚めた自分の個室、ベッドの上は、一時期の仮住まいでしかないはずなのに、ラーリオスとして、ぼくが成長してきた大切な記憶の縁処(よすが)となっていた。
「やっぱり、ここから始まるんだな」
 明かりに灯された自室にホッと安心し、一声漏らす。
 いろいろと失いはしても、自分の原点となる何かを持っていれば、そこからまた立ち上がることができる。この部屋がそういう場所になるなんて、最初は思いもしなかった。自分を隔離する狭い牢獄のように感じ、早く外の世界に飛び出したいとも考えたのだけど……。

 壁時計を確認すると、針は10時過ぎを示していた。
 秒針が絶え間なく時を刻み、かすかな音が現実を確かなものに感じさせる。
 まどろんでいたような思考が、少しずつ覚醒していった。
 10時過ぎ。
 朝か夜か、どっちだろう? 
 普通なら、夜に寝て起きたのだから朝のはず。
 だけど、どうもいろいろな試練のあとで、おおかた意識を失って倒れたのだろうから、自分の体感時間もあやふやで信用できない。
 そういう時は空腹の具合で確かめるのが常だったけど、何だか食欲が湧かない。腹が減りすぎると、もはや空腹を感じなくなるという話を聞いたことがある。今は、そういう状態なのかな。瞑想か何かの修業で、断食状態に自分を追い込み、現実の肉体から精神を切り離すことで、解脱を図るのだとか。
 ただ、ぼくは自分の肉体を大切にしたかった。だから、意識して現実感覚にしがみつこうとする。
 左手首は包帯が巻かれ、傷の痛みも感じない。失った体の部位がいつまでもうずき続ける、という話も聞いたことがあるけれど、もしかすると感覚自体が麻痺しているのか、それとも傷の痛みには元来、鈍感なのか。
 それでも片手だと、フットボールは難しいだろうな。ボールをキャッチするのに、ハンデがあり過ぎる。
 他にもいろいろ問題を数えると、陰鬱になりそうだ。
 右手がかゆくなってもかけないし、
 戦いでも楯が持てないし、
 殴り合いでも左のジャブが使えず、
 相手をつかんで投げ飛ばすことだって難しい。
 だけど……片手の英雄だっているじゃないか、と思い直す。
 ルーク・スカイウォーカーだって、ダース・ヴェーダーに腕を落とされ、義手を使うようになった。
 ゾディアックの技術なら、SF映画にも匹敵する精巧な義手ぐらい用意してくれるだろう。
 機械の義手が、元どおりの感覚を備えているとは思えないけど。

 ひととおり自分と周囲の状態を確認し、受け入れた後で、ようやく何かをする気になった。
 携帯電話があれば、好きな音楽を聞きながら、今の状況を整理したい気分。あるいは、ボイスレコーダーに自分への激励とか、つぶやきを残してもいいな。
 一度、気分を盛り上げてみたけれど、携帯電話はない。
 失ったものへの未練は、無理にでも断ち切る。
 何にしても、あまりにもいろいろなことがあった一晩なので、じっくり反芻する必要はある。
 そばに誰か話を聞いてくれる人、ジルファーかリメルガ、ロイドでもいればいいのだけど……彼らにはいろいろ言わないといけないことがある。ジルファーには、ライゼルのことや、邪霊のことを相談しないといけないし、リメルガたちにはまず謝らないと。
 そして……カレンさん。
 彼女とどう接したらいいのか、急に不安になる。
 仮に、彼女の異変をジルファーに相談するにしても、一体、何て言ったらいい? 
 ぼくがライゼルに憑依されたように、カレンさんはおそらく、トロイメライに憑依されている……って、そんな話を簡単に信用させられるとは思えない。
 この件で、ジルファーを納得させる説明って、どうすれば?
『私は、人の魂については鈍感な方さ。私に語りかけるのは、文字情報だけだ』
 彼の言葉を思い出す。
『カート、私はね、文字を読みながら、その背景に書かれた物事の真実を聞き取ることができるのだよ。記述者の残した思いが語りかけてくる、といった感じだ』
 つまり、ジルファーにぼくの知る真実を伝えるには、手紙が有効ということか。文章をうまく書ける自信はないけれど、心を込めて書けば、ぼくの感じる真実は、ジルファーがきちんと汲み取ってくれるはずだ。

『拝啓ジルファー様』
 読書用に使っていた書き物机に向かい、ぼくには小さなサイズの椅子に腰かけ、ペンと紙を用意すると、慣れない執筆作業が始まった。
 携帯電話があれば、メール機能で下書きし、それから紙に清書するところだけど、いきなり手書きというのは、学校の板書や計算を除けば、それほどない。レポートだって、タイプライターを使うのが当たり前だ。
 パソコンがあればもっと便利だろうけど、オリバー家のデスクトップはほぼ兄貴専用となっており、ぼくが自由に使えるわけじゃない。ぼくだって、別に機械オタク(ギーク)みたいな趣味を持っているわけじゃないから、パソコンの購入を親に求めるようなことはしなかった。学校の授業で、最低限の使い方を習得した程度。使いこなせれば便利だろうけど、必要な知識は自分で調べなくても、兄貴に聞けば喜んで教えてくれたので、問題なかった。
 ただし、手紙の書き方について、兄貴から教えてもらったことはない。そんな必要がなかったからだ。
「ええと、次は何を書けばいいかな?」
 学校で習った手紙の基本作法を思い出す。ええと、季節のあいさつ?
『先夜は、雪の中の戦い、大変でしたね』
 何だかおかしい。それに《氷の星輝士》なんだから、雪の中は得意だったと思う。
 片手で、失敗した紙を丸めてゴミ箱にポイと捨てる。ナイス・シュート。
 改めて書き直す。
『拝啓ジルファー・パーサニア様』
 今度は、ファミリー・ネームも付けることにした。
 そして、パーサニアの名前が出ると、弟のことも書かないといけないような気になる。
『先夜は、ライゼルとの戦い、お疲れさまでした。いろいろ考えることはあったけれど、彼も最後は満足して去って行ったようです。自分を殺したことを悔やむな、と言ってました。腹を割って話してみると、戦士として、一人の男として見習うところも多く、惜しい人間を亡くしたと思いますが、ぼくたちは過ぎたことよりも、未来のことを考えないといけません』
 一度、筆が乗ると、勢いのままにスラスラと綴ることができて、ぼくは満足した。
 自分に文才があるとは思わないけれど、最低限、書きたいことを書くぐらいのことはできると分かって、安心する。
 さて、次だ。未来のこと……本題に移らないといけない。
『今後を考えるに当たって、一つ大きな懸念があります。それは《闇》、邪霊にまつわることです。ライゼルもぼくに警告してくれましたし、ぼく自身もいろいろ見聞きし、感じたことがあります。自分でもあいまいな感覚で、口頭で伝えようとしても、しどろもどろになりそうです。たぶん、信用してもらえないんじゃないかな、と思います。ただ、ジルファーなら、ぼくの書いたものを読むことで、ぼくの感じ方を体感できるんじゃないか、そう思って、ひとまずは書面に託したいと思います』
 さあ、前置きは十分だ。少し表現が固い気もするけれど、内容が内容だけに軽薄な文章になるよりはマシだと思った。
 いよいよ、カレンさんのことを書かないといけない。どう書けばいいだろう? 

 紙をにらみ、神経を集中させていたため、不覚にも背後の影に気付くのが遅れた。
「お目覚めになられた途端、何やら書き物とは御精が出ますな、ラーリオス様」
 陰気な声と同時に、左側から骨ばった指先が伸び、書きかけの手紙をスッと奪いとる。とっさに防ごうと思って、左腕を動かしたけれど、紙をつかむことはできなかった。
 ガタンと椅子を倒して立ち上がり、振り返って侵入者をにらみつける。
 黒ローブの神官殿は、すでに距離をとり、こちらを探るような視線を向けて牽制した後、おもむろに書面をながめた。
「『拝啓ジルファー・パーサニア様』 なるほど、お手紙ですか。この私めが添削して差し上げましょう」
「必要ない。返せ」
「まあ、そう遠慮なさらずに。このバトーツァ、昔は舞台役者のかたわら、台本書きや文章指導などの副業にも手を染めたことがございまして……」
「返せ、と言っている」ぼくは精一杯の威厳を言葉に込めようとした。
「返せ、ですか。私めも以前、同じことを言った記憶がありますな。確か、不覚にも小犬めに星輝石を奪われた際、私はそう叫び訴えたはず。あなた様は返して下さいましたか?」
 バァトスの暗い瞳がギラリと輝き、ぼくを威圧した。
 ぼくは気圧されてしまい、何も言い返すことができなかった。
 ただ、油断なく隙をうかがい、にらむ姿勢を崩さない。そうすれば、相手が手紙の文章に注意を向けるのを阻止できるとは思った。
「険悪な表情ですな」バァトスはどこか飄々(ひょうひょう)と言ってのける。「まるで、敵でも見るかのように……。不本意なことです。分かりました、このバトーツァ、過去のことは蒸し返しませんとも。こう見えても、さっぱりした人物であろうと努めておりますのでな。大切なものは、お返しいたしましょう。さあ、どうぞ」
 うやうやしく手紙を捧げてくる。
 ぼくは少し毒気を抜かれながらも、差し出された手紙を右手でバッとつかみとった。
 相手が何か企んでいやしないか、と警戒を崩さないまま。
「どうやら、これから本題を書こうとしていたようですな」バァトスは、さらりと言う。「何を書こうとしていたか推察するところ、師の計画の妨げになるような感触を得ましたが……」
「お前には関係ない」ぼくは不機嫌に言った。
「関係は大ありですとも。《闇》や邪霊のことに触れていたではございませんか?」
「読んだのか?」
「あれぐらいの短い文面なら、一瞥(いちべつ)しただけで十分ですよ」
 この男の能力をあなどっていた。
 ジルファーやリメルガ、ランツにライゼルといった男たちは、個々の性格に違いはあっても、自分の能力に自信を持ち、しっかり信念を語るという点で共通している。そういう人間の特性は、容易に把握できた。
 だけど、バァトスのような男は、ぼくには理解し難い。冗舌なのに卑屈、計算高いように見えて、隙も多そうだ。そのため、どこか能力を見下げてしまいがちになる。
「読んだんだ」ぼくは驚きを心にとどめ、事実をそのまま口にした。「だったら、どうする?」相手の出方をうかがうように問い掛ける。
「あなた様次第でございますよ、我が君(マイ・ロード)」神官はどこまでも慇懃な態度を崩さない。「私も、そして我が師も、あなたと敵対する意思はございません。一方的に敵意を向けてくるのはそちらの方です」
「《闇》と契約していて、よく言う」ぼくは吐き捨てるように言った。「そちらが協力的でも、ぼくは邪霊に魂を売るつもりはない。引き込もうとしても無駄だ」
「どうしてですか?」バァトスは、《闇》との関わりを否定することなく、そう尋ねてきた。「あなたは邪霊について、何を知っているのです?」
「世界に混沌をもたらす破壊者。星王神に仇なす者」どこかで聞いたような知識を、そのまま口にした。
「確かに、そのような輩も含まれるでしょうな」バァトスは、厳かにうなずいた。「世界に混沌をもたらす破壊者。そういう連中は、私どもにとっても敵です。《闇》の世界にも秩序を、というのが師のお考えですから」
「信じられないな」ぼくは思わず、漏らした。「(デュンケ)ライゼル、あの暗黒竜が邪霊の本質ではないのか?」
「それは、戦争を続け、人々を殺戮するのが人類の本質だというのと同じ理屈です。それのみを持ち出して、人類は滅ぼされなければならない、というのが、あなたの主張ですか?」
「まさか」ぼくは首を横に振った。「人類の歴史には愚かなことだってある。だからと言って、人類全てが悪だということにはならないだろう」
「星王神にとって、人類は不安定な存在です。正しく導かれない限り、滅ぼすことも(いと)いません。私どもは、それを阻止しようとしているのです」
「……その理屈だと、星王神が悪の破壊神みたいな言い方だな」
「強大な力は、すべからく、そういう危険性を秘めています。たかだか一体一体の邪霊よりも、暴走した神の力の方がよほど人類にとって脅威でございますよ。あなたは神の尖兵として、人類に鉄槌を下すことをお望みですか? それとも、人類の守護者として振る舞うことをお望みですか?」
「もちろん、破壊よりも守護を選ぶ」ぼくは断言した。「だけど、お前が、それにトロイメライが人類の守護者だとは……信じられない」
「信じていただくほど、じっくり話をする時間もありませんでしたからな」バァトスの言葉は、心底、残念そうだ。「パーサニア殿の代わりに、私が教育係に選ばれていれば、誤解のないようにいろいろお伝えできましたものを……」
「《闇》の教義とやらを、か?」ぼくは神官の巧妙な話術に乗せられまい、と警戒を強めた。「暗黒面(ダークサイド)の誘惑には乗らない。大切な仲間の絆を断ち切り、世界を闇と炎に包むなんて真っ平ごめんだ」
 ぼくの心の中に、SF映画のいろいろな幻像(ビジョン)が浮かんだ。
 銀河共和国元老院議員として振る舞うことで人望を集めながらも、その実態はシスの暗黒卿ダース・シディアスとして、宇宙に戦乱をもたらし、圧制の帝国を築いたパルパティーン。彼の陰謀の元に、世界は長い闇と戦火に包まれることになる。
 さらに、もう一つの幻像(ビジョン)
 人類抹殺をもくろむ電脳機械(コンピューター)スカイネット。「審判の日(ジャッジメント・デイ)」に象徴される核戦争をもたらし、闇と炎の未来を生み出した。
 その幻像(ビジョン)の先にあるもの。
 バァトスの管理していた《太陽の星輝石》が見せたのは、闇と炎に包まれた破壊の魔神(ラーリオス)
 心の中の幻像(ビジョン)では、ぼくの知る人たちが地獄の炎に飲み込まれていった。
 ジルファー、リメルガ、ロイド……それに、バァトスとカレンさんも? 
 ぼくは、自分の心の中の幻像(ビジョン)に困惑した。
 《闇》の力を受け入れることで、ぼくは破壊者になる。そう思っていたのだけど、それなら、どうして破壊の対象にバァトスが含まれる?
 それにカレンさんがトロイメライと関わりがあるなら、この幻像(ビジョン)の意味は一体?
 ぼくは右手で額を押さえた。
 苦痛に右目を閉じ、顔をしかめる。
 かろうじて左目だけは見開き、話し相手に険しい視線を向けた。

「私どもは、破壊など望みません」バァトスの言葉が穏やかに響いた。「世界を《光》と《闇》に分断し、《光》に(くみ)しないものを抹殺するのが、今の星霊皇と星王神の所業でした。世界は明確に二分され、《闇》と見なされたものは忌むべき対象として、社会から排除された。我が師トロイメライは、そうした神の専横から世界を解放しようと努めているのでございますよ」
「トロイメライは、破壊を望まない?」
 バァトスはうなずいた。「もちろん、あなた様の懸念は察します。闇という概念は幅広い。無知や不見識、ネガティブな心の揺れ、迷い、そして混沌の魔物、地獄や深淵などにも闇という修辞が付けられる。多くの物語でも、闇は忌むべきものとして排除される運命にある。人は見えぬもの、得体の知れぬものを根源的に怖れるものですからな。それも、ろくに見定めようともせぬままに」
「それなら、どうして自ら《闇》を名乗る? わざわざ誤解を招くような呼称を選ばなくても……」
「ごもっともです。ですが、出自を偽っても何になりましょう。星王神が《光》を名乗り、世界を分断した以上、《闇》に分類されたものはその事実を恥じて星王神に恭順の意を示すか、その事実を隠して忍び暮らすか、それとも《闇》の汚名を誇りとして強く生きるか。あなたなら、どの道を選ばれますか?」
 これは難しい問いかけだった。
 光と闇という言葉は抽象的だけど、仮に光をキリスト教に代表される西洋文明、闇を西洋の移民政策に追われたネイティブ・アメリカンの文化に置き換えたらどうなるだろう。未開の蛮族と見なされた有色人種は、自分たちの文化を完全に捨てて西洋文明に同化するか、それとも西洋の手の届かない隠れ里でこっそり暮らすか。あるいは西洋人社会にあっても自分たちの誇りを失わず、強く生きていくか。
 自分の出自から、そういう発想にまで至ってしまい、ぼくはただ単純に闇を拒絶するわけにはいかなくなった。
 バァトスから視線をそらすと、先ほど自分で倒した椅子が目に留まった。
 沈黙を埋めるため、体を動かして椅子を立ち上げる。
「座れよ」ぶっきらぼうに相手に勧める。「話は長引きそうだ。立ち話ってわけにも行かないだろ?」
「ラーリオス様は?」
 ぼくは、居心地のいいベッドに腰かけた。
「《闇》の教義、聞こうじゃないか。その上で、何が正しいか判断する」
「分かりました」バァトスはそう言いながらも、椅子に座ろうとはしなかった。
「どうした?」
「あなた様が聞く耳を持つようになったのであれば、私の役目は果たせました。あとの話は、我が師が直接、語られることでしょう」

 部屋の扉がスッと開いた。
 入ってきたのは、見知った女性だった。
 夢で見たような妖精めいた、黒髪の少女然とした小柄な姿ではなく、もっと年上で、金髪で、落ち着いた雰囲気をもった大人の女性。
 身に付けている装束も、黒ではなくて、白と緑の清楚な雰囲気のローブ。
 だけど……ぼくの視線は、彼女の瞳に向けられた。
 湖を思わせる特徴的な青い瞳はそこになく、深い闇の色が鋭く細められた(まなこ)に宿っていた。
 たった一つの部位(パーツ)の違いなのに、全ての雰囲気が異なって見える。
 女性は婉然(えんぜん)とした笑みをこぼして、部屋に入ってきた。
「初めまして……と言うべきかしら、ラーリオス様」
「夢の中を除けばね」ぼくは動揺する心を何とか抑えながら、静かに言った。「それと、昨夜も会っただろう? (デュンケ)ライゼルとの戦いでは、力を貸してくれてありがとう」
「やはり気付いていたのね」女性は穏やかな口調に、感心したような響きを込めた。「だけど、正確には一昨夜と言うべきよ」
 ぼくは思わず、バァトスに目をやった。
「ラーリオス様は、ずっと眠り続けておいででした。今宵は、レギン殿との対決から二晩めでございます」神官が説明を入れた後、付け加えた。「我が師、いや、ワルキューレ殿が心配して、それはもう献身的に看ておられましたよ」
「そうか……」ぼくは、目の前の女性にお礼を言おうとして、戸惑った。二人の女性の関係がどうなっているのか、はっきりさせないと。「今はトロイメライ……なんだな」
「その通りよ」カレンさんの姿をした影の女性は、うなずいた。
「カレンさんは……どうなっている?」ぼくは最も気になっていることを尋ねた。「あなたが乗っ取ったのか? それとも、最初から全て演技だったのか? カレンさんという存在は元々、実在しなくて、全てはぼくを騙すための芝居とか?」
 そこまで言ってから、思わず顔が熱くなり、右手で両目を押さえ込む。そうしないと、涙がこぼれ落ちてしまいそうになったからだ。
 スーザンがゾディアックという組織のために、ぼくに近づいたと知ったときもショックだったけど、今また、カレンさんまでが偽りだったと考えるだけで、何とも居たたまれない気持ちになる。
「安心なさい。ワルキューレは、きちんといるわ。幻に近いのは私の方。トロイメライは肉体を持たない魂のような存在なのだから」
「いつからだ?」ぼくは手で視線を隠したまま、簡単な言葉だけで尋ねた。いつから、トロイメライがカレンさんに憑依していたのか、と問うたつもりだったのだけど、
「500年近い前からよ」
「どういうこと?」答えの意味が分からず、ぼくは顔から手を離して、トロイの黒い瞳を見据えた。
「トロイメライは、500年ほど前に今の星霊皇との戦いで、命を落とした。それでも私の意識は残り続け、一種の……そう、星王神に言わせれば、邪霊という立場で行動している。私自身は、自分が邪悪だと思ったことはないのだけどね」
 ぼくは、またもバァトスに目を向けた。
「我が師は、かつてシンクロシア様の称号で呼ばれた方なのですよ」
 トロイに対して、今までとは違う視線を向ける。
 ぼくにとって、シンクロシアとはスーザンのことだった。トロイメライが《影の星輝士》として、スーザンの師匠みたいな立場にあったことは、夢で見知っていたけど、500年前から存在し続けるなんて思いもよらなかった。
「どうして、ぼくにそのような秘密を?」呆けたようにつぶやく。
「尋ねられたからよ、いつからって」
「いや、そういう意味じゃなくて……」ぼくの頭は混乱した。こういう事実を受け止めるには、星輝石の助けが必要だ。
 無意識に左手、そこにあった星輝石をなでようとして、どちらも失われていることに気付く。行き場をなくした右手は、結局、痛む頭を抑えることしかできなかった。
「バトーツァ、あれを」
「ハッ、分かりました」師の言葉に応じて、神官が懐から液体の入った紙コップを取り出した。「これを飲んで、落ち着きを取り戻してください、ラーリオス様」
 ぼくは動揺していたために、何の疑念も抱かず、差し出された液体を口にした。妙に甘ったるくて、懐かしいその味は……
「ワルキューレ殿特製コーンスープでございます」
 ブッ。
 思わず、吹き出しそうになって、何とか耐え凌ぐ。
 星輝石の力で甘さを加減していなかったために、もろに飲んでしまった。
 口内に広がる甘さを味覚情報が適切に処理している間、やがて、動揺し混乱した頭の方も何とか冷静さを取り戻すに至った。

「あまり難しい話を受け付けられる状態ではなさそうね」
 トロイメライが(いた)わるように言う。
 その細められた黒い目を見なければ、口調だけではカレンさんと判別がつかない。
「大丈夫だ。落ち着いた」ぼくは虚勢を張った。
 この影の女性の前で、弱みを見せるわけにはいかない。一度、心を許すと、《闇》に引き込まれる懸念があった。
「大丈夫じゃないわ。夢で会ったときと比べても、あなたが衰弱しているのは明らか。手に入れた力を無制限に使い過ぎたのよ」
「そうでもしないと、生き延びられなかった」ぼくはライゼルとの戦いを思い出した。星輝士と戦うことが、どれほど危険か、身をもって知った。
 そして、今、ここにいるのも《影の星輝士》、もしくは《森の星輝士》か。さらには神官もいて、ひとたび戦いになれば、ぼくが生き延びることは難しいだろう。
「何にせよ、栄養補給はしないとね。スープのお代わりはいかが……とワルキューレが言っているわ」
「カレンさんの意識はあるのか?」ぼくはベッドから立ち上がった。身長はぼくの方が高いので、立つと金髪の女性を見下ろす形になる。
 ぼくの目の前で、暗い瞳が見開かれ、光を取り戻し、澄んだ湖の色合いに変わる。
「カレンさん? カレンさんなんだね。どうして、こんな……」
「リオ様、私……」青い瞳が伏せられ、「ごめんなさい」と一言つぶやきが漏れる。
 次いで、スッと瞳の色が切り替わり、トロイメライが表に出た。
「分かったでしょ? ワルキューレと私は別人格。あなたと、あの時のレギンのようにね。そして、私は無理矢理、憑依したわけじゃない。合意の下に、体を使わせてもらっているの。あなたと、きちんと話をするために」
 確かに、ぼくはトロイメライとの対話を望んだ。
 スーザンと殺しあった悪夢を追体験したときに言ったのだ。
『説得したいなら、夢みたいな曖昧な形じゃなく、現実に会ってすればいい』って。
 その後、投獄中のバァトスに話した際も、トロイとの対面を望んだ。
 だけど、こういう形は望んでいなかった。
「カレンさんはカレンさん。トロイメライ、あなたとは別人。だったら、あなたの肉体は今どうなっている? ぼくがいつか、憑依したことがあったろう?」
「ああ、あの時ね。星輝石を手に入れたばかりのあなたに、あのような真似ができるとは思わなかったわ。さすがの私も驚いた。私の精神的接触を防ぐばかりか、憑依(ポゼッション)まで仕掛けてくるとはね。誰から学んだの?」
「誰からも。何となくできた。それより、こっちの質問だ。あの時の肉体は?」
「ワルキューレよ。あなたは、私の憑依したワルキューレの肉体に、二重に入ってきたの」
「ぼくがカレンさんの肉体に……」足が震えてそれ以上、立っていられなくなって、再びベッドに腰を落とした。
 あのときは確かに、自分が取りついた肉体の主の外見を、鏡で確認したりはしなかった。暗かったし、身に付けた衣装の色なんかも見ていない。ただ、女性らしいしなやかな動きと、バァトスとの会話内容から、トロイメライだと推測したに過ぎない。
 肉体がカレンさんで、中身がトロイメライだなんて、誰が考えられるだろうか。
 そういうのは、憑依(ポゼッション)という経験に馴染んでいる者の発想だ。今のぼくならともかく、あの夜のぼくがそこまで考え及べるはずがない。
「私の生前の肉体は、すでに朽ち果てている。今は《影の星輝士》ナイトメアの体を主に使わせてもらっているけどね。彼女は強力な邪霊との戦闘で、魂を食い破られたの。助けようとしたけど間に合わなかった。だから、私が彼女の仇を討ち、彼女の役割を代わりに果たしているというわけ。それも、彼女の望みだったから」
 トロイメライが端的に語った事情は、混乱していた心にはよく理解できなかった。
 ただ、背景には複雑な物語があるのだろう、ということは分かった。ぼくにはぼくの物語があり、トロイメライには彼女の物語がある。今は交わっているけれども、相手の物語の全てを理解することは不可能と言ってもいい。それこそ、神の視点に立たない限りは。
「あなたの事情は、どうでもいい」ぼくには、こう言うしかなかった。
「いずれ、詳しく聞きたいときがあるのかもしれないけど、今はカレンさんのことを教えて欲しい。いつからなんだ?」さっきの質問を繰り返す。
「ああ、そういうこと」トロイメライは、ぼくの質問の意図を納得したようだ。「私がいつから、この()の体を借りるようになったか。もしくは、この()がいつから《闇》の導きを受けるようになったか、が聞きたいのかしら」
 《闇》の導き……その言葉は、ぼくの心に染み入るように流れてきた。
 トロイメライの仕掛けた言葉の網に、ぼくは望んで絡まれていったのだと思う。
 決して性急すぎることなく、丹念に編みこまれた陰謀の網に。

 トロイはようやく、用意された椅子に腰を落ち着けた。
 こちらを見つめる黒い瞳から目をそらそうとすると、必然的に足下を見ることになる。
 ゆったりと膝から下を組んだ仕草が目に留まる。ローブの裾から素足がちらつき、慌てて目線を上げた。
 白いローブは清純さの象徴で、露骨な色気は発散されていない。
 それでも、自分が以前、この肉体に憑依したことがある、と知ると、心は穏やかではいられなかった。
 トロイの下にカレンさんの意識がある以上は、彼女もその事実を知っているのだろう。
 どう受け止められたのだろうか。
 いろいろと物思いにさいなまれ、相手の顔を正視できず、微妙に目を伏せたままになる。
 ハードボイルドとは程遠い自分の未熟さに苛立ちながら、ぼくは喉の渇きを癒すべく、例のスープを改めて口にした。よく思い出せば、スープの味の調整に星輝石は必要ない。星輝石に頼らなくても、ぼくにできることはあるのだ。
 どこか安心してスープを飲み干すと、にわかに空腹を覚えるようになった。同時に腹の音が鳴り響き、ぼくの欲望を周囲に知らせることになった。
「やはり、お代わりが必要みたいね」穏やかな言葉とともに、トロイはクスリと笑った。
「ああ、それもたっぷり」ぼくは、無理に虚勢を張ることをあきらめた。
 そのときのトロイの笑みは、若い女性というよりも、母親、いや、むしろ祖母のような落ち着きを感じさせた。そう、トロイメライが500年前から存在しているということは、その知恵は祖母にたとえるのが妥当だろう。
「バトーツァ」トロイの呼びかけに、神官はハッと短く応じた。「鍋ごと持ってきなさい。それと、例のものを」
「よろしいのですか?」かすかな疑念を示した返答。「こちらの準備はできておりますが、ラーリオス様の方に受け入れる構えができているかどうか」
「元々、ラーリオス様のものよ。返すなら早い方がいい」
「分かりました。至急、お持ちしましょう」そう言って、バァトスはぼくに意味ありげな視線を向けた。「ククク、ラーリオス様。あなたからお預かりした大切なもの、きちんとお返しに上がるゆえ、快くお受け取りください」
 もって回ったような言い回しに不安を覚えて、トロイを見る。
「怖れることはないわ。失ったものを取り戻すだけ」
「その代償が《闇》への入信というわけか。《暗黒の王》、それがあなたたちの望みなんだな」
「ええ、星王神に対峙して飲み込まれないためには、それに匹敵する力が必要なの」
「だけど、《闇》は破壊につながらないのか? ぼくは、それが怖い」
「それは、あなた次第よ。破壊の力に身を委ねるか、それとも力を制御して自分の望みをかなえるか。私は《闇》の持つ破壊の本能を肯定しない。もしも、自分の立場を言葉で規定するなら、そうね、『異質な闇(フォーリン・ダークネス)』と呼べばいいかしら」
 『異質な闇(フォーリン・ダークネス)』……その言葉は、ぼくの心の中で《闇》への怖れを和らげた。たった一つの形容句だけど、それだけで忌み嫌う暗黒面とは別物だと感じさせてくれる。そう、《闇》にあって《闇》とは異なる、自分だけの生きる道をそこに見い出した気分だった。

 神官が戻るまでの間、ぼくはトロイメライと二人っきりだった。厳密には、カレンさんも含めて三人だけど。
「カレンさんも結局のところ、あなたたちの仲間だったと言うことだね」質問というより、確認の言葉だった。
「そう、あなたに会う前からね」
 つまり、ぼくは最初から騙されていたことになるのか。
 でも、それはカレンさんだけじゃない。スーザンも、ジルファーも、ぼくを欺いていたではないか。
 ぼくが信じていた人たちは、みんな、ぼくを裏切る。そう思いつめると、自分が《闇》を受け入れるのも、故なきことではないように思われた。そう感じる自分に、どこか虚しさを覚えながら。
「カレンさんが味方だったら、どうして、あんなことを言ったんだ?」ぼんやりした頭で、何とか思いついたことを尋ねる。
「あんなことって?」トロイメライは首をかしげた。
「『ワルキューレを信用しないこと』って言ったろう?」ぼくは指摘した。「味方だったら、わざわざ疑念を煽るようなことを言う必要がないじゃないか」
「ああ、そのこと」トロイは、いたずらっぽい笑みを浮かべた。「私は隠し事はしても、嘘はつかないのがポリシーなの。あなたへの警告は、全て真心からのものよ。もっとも、あなたがどう受け止めるかまで、ある程度、予測はしていたけれど」
「どういうことだ?」
「もしも仮に、私の警告を受け入れてワルキューレに不審を抱くようなら、あなたは私に従ってくれる可能性が高い。逆に、私の忠告に従わずにワルキューレを信じ続けるようなら、この()をうまく使うことで、あなたを誘うことができる。どちらにせよ、あなたを引き込む道が見い出せる」
「ずいぶん手の込んだ策だな」ぼくは皮肉っぽく感想を述べた。「だけど、ぼくがその時、あなたとカレンさんの関係に気付いていた、とは考えなかったのか?」
「あなたは、こう言ったわ。『《闇》の師(ダークマスター)はいらない。ジルファーやカレンさんに教えてもらうから』って。ワルキューレを信じていたことの証よね。今はどちらを信じるつもり?」
 トロイメライは(つや)やかな瞳で問いかけてきた。
「カレンさんは《闇》を受け入れたんだね」ぼくは直接答えることができず、逆に尋ねた。「ジルファーはどうなっている?」
「まだよ。いずれ誘えれば、と思っているけど」
「真実……をちらつかせればいい」ぼくはそう言った。
「そうね」トロイは笑みをこぼす。「真実は、彼を惹きつけるキーワードになる。でも、それだけではまだ足りない。あなたの助けが必要よ。協力してくれる?」
「そちらの望み次第だ」ぼくは慎重に断定を避けた。「あなたは、星王神に対立する勢力を築きたい、と言った。そのために、ラーリオスを《闇》、いや《異質な闇》に引き込み、星王神と対峙させる計画を練っている。そういう理解でいいね」
 トロイメライはうなずいた。
「大義は何となく分かる気もする。ただ、あなた個人の望みが知りたい。どうして、そこまでして、星王神に(あらが)おうとする? あなたが《異質な闇》に手を伸ばした理由(リーズン・トゥ・リーチ)を聞かせて欲しい」
 トロイメライが初めて言いよどんだ。周到な計画を張り巡らしている彼女が、予期しない質問だったのだろう。余裕のある美しい顔立ちが、深刻な歪みをかもし出した。
 やがて、
「失われた愛を取り戻すため……と言ったことかしら」カレンさんの唇、トロイメライの心の紡ぎだした言葉は、それだった。
「かつてのシンクロシアとして、私はラーリオスを愛した。だけど、その想いは届かず、ラーリオスは私を拒絶して星王神を選んだ。それが今の星霊皇。間もなく、星霊皇は任期を終え、その役割は次代に受け継がれる。私は彼の魂を星王神から取り戻し、500年の間、果たせなかった想いを遂げたいと思っている。そうした妄執が、今の私の根源なのかもしれないわね。それに加えて……私の悲劇は、次代に繰り返して欲しくない、という気持ちもあるわ」
 そこまでの想いが聞き出せるとは思わなかった。
「失われた愛を取り戻すため、か」ぼくは、その言葉に強い共感を覚えた。「トロイメライ、ぼくはあなたを信じるよ。ただ、ぼくだって誰かを裏切るようなことはしたくないし、何かを失いたいとも思わない。カレンさんだって、ジルファーだって、他にぼくと関わった多くの人たち、そういう人の信頼を捨ててまで、《闇》に踏み込む覚悟はない。欲を言えば、スーザンとだって戦いたくない。こういう気持ちは我儘(わがまま)なんだろうか」
「星王神の教義なら、我儘(わがまま)と言うところでしょうね」トロイは再び穏やかな表情に戻った。「執着を断ち切り、己を捨てて精進に励む。そういったことを美徳と見なしてきたから。それに対して、《闇》は全ての欲望を肯定することから始まる。《闇》の道なら、我慢の必要はない」
 それはそれで個人の気持ちとしては魅力的だけど、万人がそういう考えだと、社会や文明は成り立たないだろう。《闇》が秩序をもたらさないことは、容易に想像がつく。
「《異質な闇》はそうじゃない、と言うことだね」ぼくは確信をもって尋ねた。
 トロイメライはうなずいた。「欲望を肯定し、かつ秩序を保つためには……」語り始めたところで、扉が開いた。
 退室していた神官が戻ってきたのだ。
 大鍋を乗せた配膳車を部屋に引き入れに掛かる。
「この話は、またの機会にしましょう」トロイメライの講義は、そこで中断した。

 バァトスは黒い執事のように恭しい態度で、給仕役を務めた。
 紙コップではなく、陶器製の碗に注がれたスープを、匙を使って口にする。
 本来は、これが正しい飲み方だと思う。
 そして味を調整しなくても、今回のスープは普通においしかった。
「これは……さっきとは違うんじゃないか?」ぼくは神官に尋ねた。
「ええ、ワルキューレ殿の味付けは、いささか甘みが過ぎるようでしたからな。温め直すついでに、少しばかり手を入れさせてもらいました。お気に召されたらよろしいのですが」
「癖はないけど、普通においしいよ」素直に評価した。
「一応はこのバトーツァ、舞台役者のかたわら、厨房で働く機会もございまして……」
「プロの料理人ってこと?」
「一流のシェフというわけではありませんが、小遣い稼ぎのために、小料理屋で雇われ仕事をする必要があったのですよ。世の中で生きていくには、できることは何でもこなしませんと」
「この男は、ゾディアックに来る前は、いろいろ苦労してきたのよ」トロイメライが話を引き継ぐ。「気遣いもできて、従者としては便利な男ね。何よりも忠義に篤いし」
「師にお褒め頂くとは、恐悦至極」神官はかしこまった態度で、頭を下げる。「役者であるからには、ひととおりはどんな役でもこなしませんと。ただし、肉体労働の必要な戦士やスポーツ選手にだけは、向きませんでしたな。こればかりは、体躯に恵まれたラーリオス様を羨ましいと思うばかりでございます」
 ひとたび、トロイメライを受け入れる覚悟を決めた以上、このバァトスともうまくやっていかないといけない。そう思いながら改めて観察すると、この男の取り繕った、堅苦しさを覚える演技めいた態度も、役割に忠実であろうとする生真面目さの表れと見えないこともない。
「お代わりだ」ぼくは碗を差し出して、バァトスのそつなく給仕する姿を温かく見守った。
「わ、私の顔に何かついておりますか」こちらのいつにない視線に気付いた神官はうろたえる。
「ラーリオス様は、私たちを受け入れることに決めたみたいよ」トロイが笑みを浮かべる。
 ぼくは肯定も否定もしなかった。
「なるほど、それは僥倖。さすがは我が師。説得には、もっと時間を要するものと考えておりましたが」バァトスは陰気な笑みを浮かべた。「《暗黒の王》の誕生を前祝いしたいところですな。ラーリオス様は葡萄酒(ワイン)がよろしいですか、それとも麦酒(エール)にいたしますか?」
「ぼくは未成年だ。酒は飲まない」神官の性急さに、ぼくは呆れた。
「おお、そうでございましたな。このバトーツァとしたことが、ラーリオス様の成長ぶりに、ついうっかり……」
「私の時代では、10代後半は立派に成人として認められていたけどね」トロイが口をはさむ。「それに年齢で成人かそうでないかを区別するのは、近代の風習と言えるわ。大切なのは、成年としてふさわしい能力や意識を備えているかどうか。私の目では、ラーリオス様は立派な大人よ。もちろん未経験なことも、まだまだ多いけど」
 ぼくは、トロイメライの意味ありげな視線から瞳をそらし、バァトスに注意を戻した。
 この男と初めて会食した夜は、「世間知らずの引きこもった神官」と見なしていたけれど、どうやらそうでもなかったらしい。単にテレビやネットといった情報機器に疎いだけで、ぼくとは違う世界ではそれなりに経験を積んでいたことが分かる。
 考えてみれば、サミィのような芸能人(アーティスト)を引き付けるような知識と感性を備えていたのだ。
 むしろ、世間知らずなのは、モンタナの田舎者であり、大人の社会を知らないぼく自身なのだろう。
 どこか偏見の目で見ていた、この神官の評価を改めることにした。

 バァトス製のコーンスープをおいしく飲み干して、ぼくは満足した気分に浸っていた。
 片手での食事は最初、苦労するかと思った。けれど、バァトスが術の力でスープの碗を机に固定してくれたおかげで、不自由なく食事を堪能できた。
 心も体も温まり、ぼくは緊張を緩めていた。
「それでは、いよいよですな」バァトスが、心もち朗らかさの感じられる声音で切り出した。
「何が?」
「これです」鍋の乗った配膳車から、神官がもう一つ木箱を持ち上げる。装飾はないけど、黒檀のような(つや)を放つ上質な箱で、大きさはほぼフットボール大。
「どうぞ、お開け下さい」神官が押し付けようとする。だけど、
「片手じゃ難しいよ」ぼくは不平を口にした。
 この神官は、確かに気遣いを示してくれるのだけど、ところどころ抜けているところがある。食事の際には片手なのを配慮してくれたのに、そういう気配りがどうして持続できないのかな。
「バトーツァ。もったいぶらずに開けなさい」トロイメライが命じる。
「ハッ、しかし、ラーリオス様のお気に召すかどうか……」
 今さら、何を遠慮してんだか。
 ぼくは促すように、うなずいて見せた。
「では、行きますぞ。驚かないでくださいませ」そう言って、バァトスが黒箱の蓋を開いた。
 ぼくは、かすかな期待を込め、箱の中身をのぞき込む。
 収められていたのは、赤い鱗模様の籠手だった。
 手の甲の部分には黒光りする宝石がはめ込まれており、指先は爪のように鋭く尖っている。そして、指の形から判断すると左手用だった。
「ええと、これは籠手? それとも義手か何か?」不審に思って尋ねると、
「あなた様よりお預かりした左手でございます」
「あ、そう」と納得しかけて、直後に息をのむ。
 険しい視線をバァトスに向けて、右手で箱の中身を示して再度、尋ねる。
「この左手がぼくのだって? どうしたら、こんな……異形になるんだ?」
「いや、私は再生を容易にするために、研究中の星輝石を埋め込んだだけです。すると、手の方が勝手にそのような形をとるに至った次第で……」
「よけいなことを。お前がわざわざ、こんな魔物みたいな形にしたんじゃないのか?」
「私がデザインしたなら、赤ではなく、黒にしますとも」バァトスはいつになく堂々と胸を張って、断言した。「それに、このような猛々しい獣めいたデザインにはせず、ゴシック調の優美かつ繊細な形にいたしますよ、ええ」
「このデザインは、どう見ても、レギンに由来するものね」トロイメライが指摘した。
 ぼくも納得した。赤い竜はライゼルの象徴だ。「どうして、こういうことに?」
「この手を切断したのは、レギンよね」
 確かにそうだ。
 竜人の姿をとったライゼルの鉤爪を思い出す。
「それなら……左手に残された切断時の記憶を元に、星輝石が強化する形を生み出した、と考えられるわ」
 そういうものなのか。
 トロイメライの推測を疑う理由はない。だけど、事実を信じることと、受け入れて納得することは違う。頭で分かることと、心で受け止めることには大きな開きがある。
 自分の左手が魔物のそれと化したのを、ああ、そうですか、と認めることができるほどには、ぼくはクールではなかった。
「この手を装着しないといけないのか?」
「ええ、その《闇の左手》を受け入れたとき、あなたは《暗黒の王》として覚醒されるはず」そう言って、バァトスはクククと笑った。「もちろん、ラーリオス様にそういう勇気があれば、のことですが」
 あからさまな挑発だ。
 ぼくがもっと単純で思慮の浅い性格だったら、自分の勇気を証明しようと、相手の思う壺に入っていただろう。
「二つ疑問がある」ぼくは考えをまとめるために、時間を稼ぐことにした。
 トロイが視線で、先をうながした。
「一つは星輝石だ。それを体内に取り入れたなら、ラーリオスの……《太陽の星輝石》を受け入れることに支障はないのか? 聞いた話では、前のラーリオス候補が別の石と契約して、試練を放棄したそうだけど……」
「なかなか、お詳しいようですな」バァトスが驚いたように言う。「そういう裏事情も、パーサニア殿から聞かれたのですか?」
 ぼくはうなずいた。パーサニアはパーサニアでも、弟の方だけど。
「契約を伴うのは、上位の貴石(ハイ・ジュエル)だけよ」トロイメライが疑問に答えた。「これは欠片(シャード)の改良型に過ぎないから、支障はないはず。もちろん、あなた自身が拒絶反応を起こさなければ、だけど」
欠片(シャード)の改良型」つぶやきながら、ジルファーの講義を思いだした。
『神官や術士が力を発動させる媒体で、ゾディアックの技術で複製したもの。魂を宿すことはない』。
「どう改良したの?」当初の質問とは異なる疑問が湧いて出た。
「説明しても、ご理解いただけるかどうか……」バァトスが言いよどんだ。
「ライゼルが言っていたよね。邪霊と契約した存在を醒魔(アウェイカー)と称するって。この石は、邪霊の力で歪められている。いわば、醒魔石(アウェイカー・ストーン)じゃないのかな」
「ラ、ラーリオス様。そ、そのような……」バァトスのうろたえぶりから、ぼくは自分の言葉が的を射ていることを悟った。
「この左手を受け入れると、ぼくは後に引き返せなくなる。それこそ《闇》との契約になるわけだ」ぼくはバァトスではなく、トロイメライに確認した。
「正解よ。邪霊の力を引き入れ、人の意志の力でそれを制御する。私がラーリオス様に求めるのは、そういうこと」
「つまり、ライゼルと同じ道を歩め、ということか」
「違うわ」トロイメライはかぶりを振った。「レギンは邪霊の意志に翻弄されて、自分を維持できなかった。あのように無秩序に暴走する姿を、私は求めない」
「だったら、どうしろと?」
「歩むなら、ワルキューレと同じ道にすることね」
「カレンさんも、醒魔(アウェイカー)だと言うのか?」ぼくは驚いた。ただ、トロイメライたちの味方をしていただけでなく、魔物と化しているなんて……。
 夢の中で自ら変身した獣人や、スーザンの変身した女悪魔の姿を思い出す。そして、ライゼルの変身した赤き竜人。
 人の姿を捨てた魔物たちに、本能的な恐怖を感じる。
「ぼくは、星輝士なら受け入れるが、ああいう異形になるつもりはない」
「同じことよ。あなたもジルファーや、ソラークたちの姿を見たでしょ?」
 確かに見た。
 輝く鎧をまとった光の戦士たち。闇の魔物とは異なる超然とした姿には、憧れを覚える。
「ジルファーは紫の竜人。ソラークは金色の鳥人。星輝士が戦うときは、獣の力と姿を取り入れた半人半魔な姿になる」トロイの説明は、受け入れがたかった。
「嘘だ。確かに、鎧は獣を象徴しているかもしれないけど、彼らは人のまま戦っていた」
 ぼくは、頭を押さえて自分の記憶を確認する。
 ジルファーやソラークたちが、獣人になった姿をぼくは見ていない。
 いや、見たのか?
『輝面転装!』そう叫んだジルファーの顔は竜面と化した。
 その直後、パーサニア兄弟の戦場は高空に移り、ぼくの目には、赤と紫の光がぶつかり合っているようにしか見えなかったのだ。じっくり観察できたわけじゃないので、ジルファーの異形があまり心に残らなかったのかもしれない。
 ソラークはどうだ? 
 暗黒竜との戦いで、彼らはどのような姿をしていたか。
 あの時は、内面のライゼルとのやりとりや、敵の方にばかり注意をとられ、ソラークたちの姿はよく観察していなかったのではないか? 
 身に付けている鎧のみで彼らを識別し、獣面に変わっていたとしても、気に留めず見落としていたのではないか?
「星輝士は、ただの鎧をまとった人間じゃない。自然界の諸力に感応し、野生の本能を呼び起こす。人を越え、獣を越え、神の段階(ステージ)に達する者さえいる。半人半神の視点からは、覚醒して異形をとることこそ、力の証とも言える」
 トロイメライは、優しく言い含めるように説いた。
「それでも……ぼくは人を捨てたくはない」相手の目を見ることなく苦悩に額を押さえたまま、拒否の想いを口にする。
「そういう想いは大切になさい」トロイの声は、あくまで穏やかだった。「想いだけが、人を人としてつなぎ止める。それがなければ……ただの力の器と堕してしまっては、世界にとって不幸なことだから」
 トロイメライは、人の想いを大切にする。
 それは、彼女の本質が肉体を持たない想念の結晶だからかもしれない。
 人は、肉体を失って、何になる?
 魂?
 幽霊?
 それとも……存在し続ける想念の結晶こそ、神と呼べるものなのかもしれない。人が自然界の諸力に感応し得るのと同様、人の想いに感応する諸力の一つの形態が、神と呼ばれる存在だとすれば、想いを大切にすることこそが神への道ではないのだろうか。
 星輝石もなしで、このような思索にふける自分に何となく驚きと戸惑いを覚える。
 だけど、すぐに納得した。
 星輝石なら周りにあるじゃないか。
 カレンさんと、ぼくの異形の左手。
 それらに宿る星輝石、あるいは醒魔石が、ぼくの思考を高めてくれているのだと思えば、自分がトロイメライの話を何とか受け止めている事実にも十分うなずけた。

「それで、聞きたいことは終わりかしら?」トロイメライが尋ねた。「一つは、星輝石への疑問。もう一つは……星輝士のことだったの? そういう話に流れたようだけど」
「ああ……」ぼくは、自分の聞きたかったことを思い出そうとした。
 問題の左手をチラッと見て、感じた懸念を呼び起こす。
「どうやら答えは出ているようだ」ぼくは、結論を口にした。「その左手を仮に装着しても、問題なく日常生活を送れるだろうか? 人としての生活に溶け込むことができるだろうか……って、そういうことが聞きたかったんだと思う」
「あなた次第ね」トロイメライの返事はそっけなかった。
 そう、ぼく次第。
 ぼくが異形の力を制御し、人としての自分を維持できるなら、手の外見を本来の形に変えることも可能だろう。少なくとも、星輝士はそうして日常生活を送っている。
 これで、話は終わったと感じた。
 あとは……ぼくが決断するだけだ。
「トロイメライ、それに……」ぼくは立ち上がって、神官に目を向けた。「バァトス、いろいろ教えてくれて感謝する。だけど、もう十分だ。今は一度、部屋を出て欲しい。じっくり考えたいんだ」
「な、ラーリオス様。今、ここで、ご決断されないんですか?」神官は慌てふためく。「ここまで聞いておいて、部屋から出て行け、とは……」
「バトーツァ」トロイが立ち上がって、ぴしゃりと言った。「先に出なさい」
「わ、わわわわ……ワルキュー……じゃなかった。わ、我が師よ。し、しかし……」
「私の言うことが聞けないのですか?」
「わ、分かりました。それではこれにて」バァトスはそそくさと部屋を後にした。
「食事と、左手は残しておくわね」トロイメライが確認する。
「それと……体の方も残してくれないかな?」
 黒い瞳がいぶかしげにこちらを見る。
「ああ、つまり、ぼくはトロイさんや、バァトスからは、いろいろ話を聞いたけど、カレンさんとはまだ話し足りないから」
「そういうこと」影の女性は納得したような表情を浮かべた。「二人きりで、いろいろ話したいと言うことね。ワルキューレ、それでいいかしら?」
 心の奥に呼びかけてから、うなずく。
「いいわ。それでは去るわね、我が君(マイ・ロード)。《暗黒の王》としての覚醒に期待しています」
 そう言うと、彼女の瞳がスーッと閉じ、その肉体がフワッと揺れた。
 一瞬、倒れる肉体を支えようか、と右手を伸ばしかけたとき、青い瞳が見開かれた。
 瞳と瞳が見つめ合う。
「リオ様……」戸惑いか、恥じらいか、すぐに瞳が伏せられそうになる。こういう反応は、トロイメライとは全く違うのが、改めて分かった。
 だけど、念のため、確認する。
「カレンさんは……カレンさんですか?」以前も同じ質問をした気がする。
 その時は自分でもよく分かっておらず、無意味な質問に思えた。
 今は違う。
 カレンさんが本当にカレンさんなのか、是非にも確かめたかった。
「少なくとも、トロイメライではないわ」カレンさんはどこか寂しげな微笑を浮かべた。「彼女は去ったわ。今は私一人よ」
「一人じゃないでしょう?」思わず、そう口にした。「ぼくがいるんだから」
「そうね」それでも表情は晴れない。「ラーリオス様、あなたを信じることができれば、私も癒されるかも」
「それは、ぼくのセリフだ」不機嫌に言い返す。「カレンさん、あなたを信じたかった。だけど、まさかトロイメライたちと結託していたなんて……。それは本心ですか? それとも、操られてのこと?」
「本心よ」短くつぶやく。それから、
「どうしてかは聞かないで。私はトロイメライのように、冗舌じゃない。自分の気持ちを自分でうまく説明することなんて、できないわ」
 どうも、カレンさんはこちらを拒絶するような構えだった。
 どうして? 
 ぼくは訳が分からず、戸惑った。
 《闇》の道について、トロイやバァトスだけでなく、カレンさんからも聞こうと思っていたのに、まさか聞くことを拒否されるとは思わなかった。
「とりあえず、落ち着きましょう」ぼくは彼女に椅子を勧めて、自分は座り慣れたベッドに腰を下ろした。
 カレンさんは、先ほどまで座っていた椅子に、もう一度座り直す。
 同じ体なのに、座り方は先ほどまでと異なっていた。
 足を組むことなく、ローブの裾から素足がちらつくこともない。品行方正というか、面接にも似た緊張感を漂わせている。
「さっきまでの話、全部聞いていたんでしょ?」ぼくは確認した。
 カレンさんは黙ってうなずく。
「トロイメライは、ラーリオスを《暗黒の王》として覚醒させようとしている。正直、ぼくも、そうするしかないか、と思い始めている。カレンさんは、どうすればいいと思う?」
「そういうことを私に聞いて、あなたはどうしたいのかしら?」カレンさんの声は冷ややかだった。「王だったら、王らしく決断したらいい。私の答えはこうよ。王として、私たちを導いて欲しい。そうすれば、私たちは臣下として従います」
「怒っているの?」不安になって尋ねた。「ぼくにはカレンさんの今の気持ちが分からない。いや、最初から分かっていなかったのかもしれない。何とか、できることがあれば、したいんだけど……」
「他人の気持ちなんて、そう簡単に分かると思わない方がいいわ」変わらぬ冷たさで、吐き捨てるように言う。「特に、心に強い闇を抱えた人の気持ちはね」
 カレンさんの気持ち……その内面をはっきり知りたい、という想いがにわかに募ってきた。
 どうしたらいい?
 ぼくは、自分の記憶を再生するために取った手段を思い起こした。
 アストラル投射をして、胸から映像ディスクを取り出して……自分の肉体ではなく、カレンさんの肉体で同じことをしている妄想がよぎって、慌てて否定する。
 どちらにせよ、今の自分にはそういう能力はない。
 そう、それを実行するには、石を宿した左手が必要だ。
「王として、命令したらいいのか?」ぼくはカレンさんに問い掛けた。
 次いで、決意を込めて言う。「それなら、あなたの手で、《闇の左手》をぼくに装着して欲しい」
「リオ様、それは……?」カレンさんの冷ややかだった表情が、驚きに変わった。
「それで、ぼくが《暗黒の王》に覚醒するなら、あなたの手でそうして欲しいんだ、ぼくのワルキューレ」
 ワルキューレは、英雄の魂を死の館(ヴァルハラ)(いざな)う冥府の使いでもある。
 ぼくが《闇》の道に入るなら、その誘い手はカレンさんを置いて他にはないだろう。
精神的(メンタル)な、霊的(スピリチュアル)な導きは、トロイメライに頼むことになると思う。彼女はそういった方面に、誰よりも詳しそうだからね」自分の決断を口にする。「だけど、彼女は肉体を持たない。物理的(フィジカル)な導きは、他の人に頼むしかないんだ。カレンさんにも改めて、そういう役割を果たして欲しい」
「それは……肉体的(フィジカル)な奉仕を求めている、ということですか?」戸惑いながらこちらを見る目が、心なしか上目遣いに変わったようだ。
「ああ」戦いの技とか、まだまだ教えてもらうことはいろいろあると思う。
 カレンさんの白い頬にかすかな朱がさしていることに、ぼくは気付いた。
『カレンちゃんは、ラーリオス様に惚れているんだね』
 突然、サミィの言葉が脳裏をよぎる。
 本当に? 
 ぼくには、女心がよく分からない。
 だけど、その瞬間のカレンさんの気持ちだけは、何となく伝わってきた。
 青い瞳の奥に隠れている想い、どこか深い翳りを帯びたような情念を、ぼくは何となく感じとった。そこに手を伸ばそうとすれば、ぼくは何人かの人間を裏切ることになる。
 ソラーク、ランツ……そして、スーザン。
 カレンさんを満たすことは《闇》の道に踏み込むことであり、ぼく自身が破滅することにも通じるだろう。それは、二度と引き返せない運命の道だった。

 それでも、ぼくはすでに引き返せないところまで、自分が来ていることを悟った。
 そう、スーザンが別れ際に言っていたじゃないか。
『わたしは選ばれたの』
『そして、あなたもよ。ラーリオス』
 運命がぼくとスーザンを選んだ。だけど、運命に流されるだけで終わるつもりはない。
 運命なんて打ち破れ(ブレイク・ザ・デスティニー)
 ぼくは、ぼくの道を選びとる。
 多くの人の想いを受け止め、自らの想いを満たすために、戦ってみせる。
 そのための力を恐れることなく、受け入れる。

「リオ様、いい?」しなやかな手が、《闇の左手》を恭しく持ち上げる。
「カレンさん、《闇》の力を制御できなかったときは、あなたを傷つけてしまうかもしれない」ぼくは、脳裏に浮かぶ破滅の幻像(ビジョン)を振り払えずに言った。
「覚悟の上よ」ワルキューレは、戦士らしい毅然とした笑みを浮かべた。「あなたが王としての道を選び、逃げないのなら、私はただ従うのみ」
 白い手が赤い異形の鱗手をそっと撫で、包帯の解かれた傷口に押し当てる。
 その瞬間、ぼくの左腕に強烈な刺激が走った。
 熱であり、痛みであり、底知れない飢えでもある感覚。
 そのまま神経を伝って、上ってくる。
 心臓が高鳴り、昂ぶった血流を全身に送り出す。
 視野が闇の色に染まり、ぼくは思わず右手で目の前の肢体(からだ)を抱きしめた。
「キャッ」と悲鳴じみた声音が頭の中でこだまする。
 ぼくは息をあえがせながら、相手の唇にむさぼるような口付けをした。
 ところが、身をよじって逃れようとする手応えを感じ、一瞬の隙が生まれる。
 ぼくの中で人の理性と獣の本能がせめぎあい、視界が明滅する間に、相手の腕が白鳥の翼のように大きく開かれた。
 反撃を予想し、とっさに身を庇おうとした。
 ワルキューレは、挑みかかるような目をぼくに向けて、にこりと微笑んだ。
 日常の穏やかさではなく、戦時の凄みをかいま見せる笑み。
 ぼくは引きつけられるように、青い瞳の奥をのぞき込んだ。
 そこから深い闇が浮かび上がって、包み込まれるような錯覚に襲われる。
 感応してか、ぼくの視界も再び暗転する。
 暗い視野では、相手の瞳の色も黒玉(ぬばたま)の光を放っているように見えた。
 そこに自分と同じ情欲の匂いを感じて、息をのむ。
 黒に染まった白い翼が、ぼくの頬を挟み込むように引き寄せ、甘くて苦い口付けを返した。
 そのまま滑るように、両の(かいな)が首筋に回されて、ぼくをかき抱く。
 ぼくは受け入れられた安心感に満たされ、迷うことなく突き進んでいった。

 こうして暗黒の獣と化したぼくは、闇の森の茂みの奥深く分け入り、一夜の(しとね)を過ごすこととなったのだ。
 夜の(とばり)に包まれながら、日の光も、月の輝きも見ぬままに。
 
(第3部『発動編』完。第4部『暗黒編』へつづく)


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