4ー3章 ワルキューレ・ハート どうして、カレンが今ここに? それに、その格好は一体、何? 迷彩柄の軍服姿で部屋に入ってきた彼女を見るなり、ぼくの思考は「???」で埋め尽くされた。 その後、反射的に読心術を使おうとしていることに気付き、何とか自制する。 第一に、他人の、特に女性のプライバシーをのぞき見るような行為は品がないと学んだ。 第二に、力の発動に伴って、どうも瞳の色が変わる副作用があるらしい。ジルファーがいる状況で疑われるようなヘマはしたくない。 第三に、力の無駄遣いで、精力を消耗することも避けたかった。普通に言葉でコミュニケーションをとればいいことまで、いちいち術に頼る癖をつけていては今後のためにもならない。 そうやって、自分の理性でとっさの反応を御する思考を組み立てていると、ジルファーがぼくの代わりに問うてくれた。 「カレン、どうしたんだ? それに、その格好は?」 「ごめんなさい。そろそろ話が終わる頃だと思って。でも、早すぎたかしら。リオ様の治療の続きをしたいのよ」彼女の言葉は全くよどみがなかった。まるで、嘘をつき慣れているみたいに。 「ああ、こっちの用事は済んだ」ジルファーは、あっさり納得する。「カートには励まされたよ。力の回復もできそうだ。有意義な話だったな」 「そう、この子もずいぶん成長したみたいね」そう言って、こちらに視線をちらりと向け、花のような笑みを浮かべる。入念に化粧の施された顔が、いつもより色っぽく見えるのは気のせいか。軍服姿とは少しミスマッチを覚える。 「みんなに、いろいろ教えてもらったから」純情な少年のようにドギマギしながら、そう返しておく。まだ心が成長しきらないのか。 「それにしても……」ジルファーは、改めてカレンの姿をじろじろ見回す。「治療にしては、ずいぶんと物騒な格好に見えるが。まるで戦場に出るみたいだぞ。MGの影響なのか?」 リメルガのコードネームが出てきた。確かに、 「治療だって戦場よ。リオ様が暴れたおかげで、白衣を台無しにしたわ」 「どういうことだ?」ジルファーは、こちらに目を向ける。 どういうことって? こっちが聞きたいよ。 カレン、どういうつもりだ? 視線で問い掛けると、いたずらっぽいウインクが返ってきた。 「え、ええと、あまりに痛かったもんで、つい……。よく覚えていないんだけど、無我夢中で暴れて、服を引き裂いたようなんだ」 「押さえつけるのに、苦労したわ」ぼくのつたない弁明を、カレンが穏やかに引き取った。 「……状況はよく分かった」ジルファーは顎に手を当てて、うなずいた。 本当に? 分かったつもりになっているだけじゃないの? それでも、ジルファーはぼくの心の声を気にすることもなく、言葉を続ける。 「今度、暴れるようなら私を呼んでくれ。動きを封じるのは得意だ」 「ちょ、ちょっと、まさか氷付けにするんじゃないでしょうね」ぼくは慌てた。 「それがイヤなら、痛みぐらい我慢することだ」 「あなたは手首を切断されたことがないから、そんなことが言えるんだ」不満そうに口をとがらせる。 「それにしても……」ジルファーは話をそらして、カレンに向き直った。「服だけじゃない。少し化粧が濃くなってないか?」 女性に面と向かって、そういうことを聞きますか? さすがのぼくも、それが失礼だということは分かるつもりだ。 「あなたは、少し化粧をした方がいいわよ」カレンは表情を変えることなく切り返した。「私なら、そんなやつれた顔じゃ人前には出られないわね。疲労ぐらい隠せるように、メークに時間を掛ける」 「ああ、そういうことか」ジルファーは得心したようにうなずいた。「今回の件で、疲れているのは私だけではないのだな」 「あなたは、まだましよ。もう戦いは終わったんですもの。こっちは覚悟を決めたとは言え、不安で夜も眠れないんだから」 それは嘘だろう。昨夜は眠っていたじゃないか。 もっとも、悪夢にさいなまれた時間のことを言っているなら……全くの嘘というわけでもないのかな。 「私でよければ相談に乗るが」え、ジルファーが女性を誘うような言葉をかけた? ぼくの驚きを気にかけることなく、話が続く。 「相手の戦法に合わせて、的確な戦術を構築する手伝いならできるだろう。戦う相手が、サマンサとベンの場合では、もちろん対処法が異なる。サマンサの場合は、あの機動性を封じる必要があるだろうし、ベンなら怪力と鉄壁の防御力に対抗しないといけない。サマンサを想定するなら私かソラークが、ベンの場合はランツかMG、それに……カートを模擬戦の相手にすればいいのではないか。もっとも、私だってリハビリで力を完全に回復した上でないと、君の相手が務まるかどうか分からんが」 よどみなく戦術論をまくし立てるジルファーを見て、ぼくはため息をついた。この頭の良さが、もっと女性の気を惹いて攻略する方向に向けられるようなら、恋愛事の相談相手として申し分ないのに。 「今は遠慮しておくわ」カレンは素っ気なく断った。「不安なら、リオ様に慰めてもらえるし……」 「ちょ、ちょっと、カレンさん?」ぼくは慌てた。 突然、何を言い出すんだ? 二人の関係がジルファーに知られるようになったら……。 「ふむ」ジルファーは顎に手を当てて、ぼくを見た。「王としては、臣下の気持ちを配慮することも必要だな。少なくとも、私の相談相手は務まったんだ。カレンだって、受け止めてやれるのかもしれないな」 あんたは、自分の言っていることが分かっているのか? カレンが言っているのは、王と臣下の関係ではなく、おそらくは男と女の関係なんだぞ。 教育者として、不純異性交遊を見逃すのか? 「それでは、私はここで失礼しよう」ジルファーは、ぼくの心の訴えを気にかけることなく、辞去の言葉を口にした。「カレン、治療の方は頼んだぞ。何かあれば呼んでくれ」 「ええ、任せて」カレンは、天使のようにも悪魔のようにも見える笑みを浮かべた。「リオ様の治療には、身も心も費やすつもりよ」 「まったく、どういうつもりなんです?」 ジルファーが退室し、その気配が完全に消えるのを待ってから、ぼくはベッドにへたれ込み、カレンに不満をこぼした。 「君もバトーツァも、ジルファーに余計なことをしゃべって……《闇》のことは悟られないようにするんじゃなかったの?」 「あら、あなたも人のことは言えないわよ」カレンは悪びれることなく、そう返した。「自分が《闇》だってこと、喋りたくなったんじゃない?」 先ほどまでジルファーが座っていた椅子を、軽く手ではらうような仕草をしてから、遠慮なく腰を下ろす。座り方は足を組まない普通の姿勢だけど、身に付けた衣服が違うからか、よりラフで気取らないような自然体を感じた。 「聞いていたのか……」ぼくは自分が信用されていないと感じて、傷ついた目を向けた。 「あなたがヘマをしたら、すぐにフォローできるようにね。トロイメライにも、お守りを頼まれたし……」 「どうして、みんな、そうやってぼくを疑う?」 「《闇》だからよ」カレンは、トロイメライを思わせる冷たい口調で言った。「あなただけじゃない。《闇》の世界に信頼や友愛なんて期待しているようじゃ、《暗黒の王》なんて務まらないわよ。私たちは、欲望と利害の一致、そして互いの能力への敬意があるから、つながっていられるの。利害がぶつかったり、無能ぶりが目に余ったりしたら、切り捨てられても文句は言えないわね」 「そんな……」ぼくは、自分がそうもたやすく人を切り捨てられるとは思わなかった。それに自分が切り捨てられるのもゴメンだ。 「それがイヤなら、うまく利害を調整したり、自分の能力を高めるのを怠らないこと。そして……」カレンはフフッと微笑混じりに言った。「裏切り者には死あるのみ、ね。《闇》の世界の掟よ」 「……何だかトロイメライと話しているような気分だ」思わずつぶやいてしまう。 「彼女との付き合いは、あなたよりもよっぽど長いのよ。影響だって受けるわ」カレンの青い瞳に闇がたたえられているのを、ぼくは見た。それはトロイメライとは関係ない、彼女自身の闇だということを受け入れざるを得ない。 「今、話しているのが本当のカレンさんなんですね」ぼくは確認の質問をした。 「リオ様のおっしゃっている意味がよく分かりませんわ」不意に、カレンの表情が柔らかくなって、口調もぼくのよく知っているものに変わった。「本当の私と言われても困ります。確かに王に仕える臣下としてなら、こういう言葉遣いもできますし、それが偽りだとか虚飾というわけでもありません。だって、ずっと貴族の令嬢として育てられたのですから、このように振る舞うことも私にとっては普通なんですよ」 ぼくは彼女の言葉の内容よりも、その変わりぶりに驚いてしまった。一瞬、呆然とした後、彼女の話の意味を理解する。 それからうなずいて、改めて口を開いた。「その話し方も好きだけど、服には合ってないよね。元に戻してくれる?」 「御意のままに」軽く会釈して、カレンは表情を引き締めた。「あれから、トロイメライと話し合って、ラーリオス様と今後の関係をどうしていくか、じっくり相談するように言われたわ。それで、覚悟を決めるために選んだ服がこれよ。場合によっては、《暗黒の王》と対決も辞さないつもりでいたんだけど……あなたの方こそ何よ。今朝の態度と全然違うじゃない? 《暗黒の王》に覚醒したというのは嘘だったの? それとも、今のが私をからかうための演技? まずは、そこのところをはっきりさせましょ」 「演技なんかじゃない」断固と否定した。「今のぼくは、カート・オリバー自身だと言いきれる。《暗黒の王》は……どうなんだろう? 一時期の気の迷いなのか、それとも、ぼくの中に今なお眠っているのか、自分でもよく分からない」 「何よ、それ?」カレンは呆れていた。「《暗黒の王》と名乗るあなたを見たときは、こっちも寝起きだったし、どう振る舞っていいか分からなかった。それでも確かに力や威厳は感じたし、期待だってしたわ。これから新しい時代を生み出してくれるなら、従ってもいいな、と本気で思ったのよ。それが……一時期の気の迷いってどういうこと? ちょっと、腕を貸しなさい」 早口でまくし立てた後、カレンはぼくの左手を強引につかんだ。こんな性急な態度は初めてなので、されるがままになる。 「……確かに《闇の気》は感じるわね」それだけ確認すると、あっさり左手は解放された。「《暗黒の王》を呼び出せないか、やってみて」 「何だよ、それ?」ぼくは不満を口にした。「まるで二重人格か何かみたいじゃないか。《暗黒の王》だったら、《闇の気》を高めればいい……と思うんだけど」自分のことなのに、いまいち自信がない。 「じゃあ、高めてよ」 「簡単に言うな。高めた後、元に戻るって保証はないんだよ」 「私は《暗黒の王》と話がしたいのよ。今のヘタレな子どもじゃなくて」 「ぼくは、ヘタレな子どもじゃない」 カレンに、ありのままでいるように言ったことを後悔した。今のカレンには可愛げがない。これじゃ、どちらが王か分からないじゃないか。「わがままに育てられた貴族の令嬢」という言葉がぴったりだ。 主導権を取り戻すべく、ぼくは《暗黒の王》の思考をイメージした。左手を握りしめて《気》を高めると、その手を開き、額を覆うようにして脳を刺激する。瞳を閉じて暗闇を意識すると、口元が自然と歪んだ笑みを浮かべるようになった。 これならいける。 手を顔から離し、瞳を開けると、目前の女の中に違った刺激を感じる。色気のない軍服姿の中に隠れた魅惑的なラインがありありと見てとれる。 さらに、自分と同質の《闇の気》が女の体内に深く根差しており、今にも解放の時を待ち望んでいるかのようだ。しかし、そう簡単に支配することはできないだろう。王として、服従を誓わせたい想いに駆られたが、自制が働いた。 彼女が本気を出せば、こちらが不利だ。星輝士相手に、左手だけの中途半端な力じゃ太刀打ちできない。 勝算があるとすれば、相手の体内の《闇の気》を操作して欲望を高めるか、力そのものを吸収して弱体化させるか、物理的ではない《気》のコントロールに頼るしかない。だけど、一度敵対関係に突入したなら、相手もそうそうこちらの思うとおりにはさせないだろう。 それに彼女は味方であり、敵ではない。まずは話し合って、どちらが主導権をとるか、決めるとしよう。 そうしたカートにとって異質な思考が渦巻くと、ぼくは口を開いた。 「ワルキューレのカレン、これでいいのか?」威厳を示そうと、体内に高まった《闇》を波動にして放散させる。 カレンの体がピクッと震えた。 「《暗黒の王》でございますか?」口調が恐る恐るの敬意を表明するようになったのを、ぼくは快く受け取った。 「正しくは 「ええと……」カレンは戸惑っているようだ。「今はカート、それでいいのかしら?」 「許す。他ならない君の頼みだ。それに、ぼくは協力者相手に虚飾の礼儀は求めないからね」 「ふうん、み、見事な変わりっぷりね。さっきまでの会話は覚えている?」 「これでも、ヘタレな子どもと言えるかな?」ぼくはにっこりと笑みを浮かべた。相手の質問には直接答えず、それでも相手の知りたい情報は伝わるように。 「前言は取り消すわ。いつでも、そういう状態が発揮できるなら問題ない。元には戻れるの?」 「高ぶった《気》を口付けで吸い取ってくれるなら」ぼくはさらりと嘘を言った。 一瞬、カレンの心に『ませたエロガキね。どうしてやろうかしら』という感情がよぎるのを、ぼくは意識した。 今さら、そういう心の声に傷ついてたら、《暗黒の王》は務まらない。 その奥には、甘い口付けへの期待と、年下の子どもなんかにいいようにされたくないという自尊心と、それでも王の頼みならという臣下の服従心と、相手の求めに応じることで自分の欲求を受け入れさせようとする打算と……多くの思考や感情が渦巻いていた。 正直言って、ややこしい。 これだけ複雑だと、短絡的に一つだけ取り出して、相手の本心はこうだと決め付けることはできない。 おそらく、邪霊に憑かれた人間は、黒き欲望と人の理性の間で通常以上の葛藤にさいなまれるのだろう。そういう状態で自分を維持するには、かなりの精神力を要するにちがいない。 それでも、渦巻く感情の中でカレンの心は間もなく、一つの決断をした。 「そんなこと……できるわけないわ」理性的で明確な、拒絶の意志。 「そうか」ぼくはその回答にがっかりし、次いで、凶暴な衝動が湧き上がってくるのを意識した。「君にできないというなら、こっちからしてやる」 言葉とともにベッドから立ち上がる。 すると、カレンもそれ以上のスピードで後ろに 胸の前に構えた右手に三枚の白い鳥の羽が携えられ、そこから放たれる殺気めいた威圧感がこちらの動きを牽制した。 彼女が先ほどまで座っていた椅子が倒れる。床にぶつかる音がガタンと響いて、あたかも物理現象の方がカレンの動きにようやく追いついたような錯覚を覚える。 それから、わずかばかりの静寂をはさんだ上で、 緊迫感を醸し出しながら、軍服姿のワルキューレがゆっくりと口を開いた。 「おかしなマネをすると、羽で急所を射抜くわ」 「急所ってどこだよ?」言葉に反応して、思わず問い返す。 「喉元、心臓、そして……」カレンの視線がぼくの下半身に向けられた。「口には出さなくても分かるでしょ」 「王を殺すというのか?」平静さを装って尋ねる。少なくとも話をしているうちは、攻撃されることはないと信じて。 「すぐには死なないわ」カレンは戦士の口調で言った。「命に関わるところは癒せばいい。もっとも命に別状なければ、傷ついたままでも問題ないわね」 「大いに問題ある」男としての誇りをかけて、ぼくは言った。「分かったよ。無理矢理なんてしない。君の求めに応じる。これで問題ないだろう」 そう、相手が自分から求めるようにすればいい。 「私の求めは一つ。リオ様に戻って」 「リオ様はぼくだ」 「いいえ、あなたは《暗黒の王》。私の知っている純粋なリオ様ではないわ」 「君が《暗黒の王》を呼び出せと言ったから、こうしたんじゃないか。大体、《暗黒の王》に何の用があるんだ?」 「《暗黒の王》は、《闇の気》を自由に操作できる。そうよね?」 「見たいのか? だったら……」ぼくは先ほどと同じように、波動を放った。今度は戦士を牽制するように威力を少し高めて。 「くっ、こ、こんな……」カレンは抵抗するように、羽を投げた。 お、おい? 波動のおかげで狙いがそれたのか、一本は首筋をかすめ、二本めは胸の中心に刺さり、もう一本は……ある意味、一番大事な箇所だけはとっさに左手でカバーして、受け止めることができた。 ほっと、安堵の息を漏らす。 胸の傷もかすり傷に過ぎない。 ぼくは反撃に移ろうかと思いきや、その必要がないことを見知った。 カレンは力なくその場にしゃがみこみ、苦しそうにハアハアと息をあえがせている。 「大丈夫か?」心配になって近づこうとすると、 「来ないで!」また拒絶された。 一体、何だよ、こっちは親切心で様子を見てやろうというのに。 そういう不満と、拒絶に対する反動とも言うべき嗜虐的な衝動がこみ上げてきて、ぼくの《闇》はますます高まった。この《闇》を解放してやらないといけない。 ぼくは強化された感覚で、カレンの内面をいろいろと精査した。力を攻撃に使うのではなく、もっと穏やかな方法で発散させるつもりで。 カレンの心が、邪霊の高めた欲望と、人の理性の間で揺れていることは、はっきり分かった。このまま欲望を高めてやれば、理性が消滅し、ぼくの求めにもたやすく応じるようになるだろう。 次に、相手の体内の《闇の気》を確認する。 すると、面白いことが分かった。 彼女の《闇の気》は、こちらの高まりに応じて活性化しているようなのだ。これは逆に言えば、カレンの《闇の気》に同調することで、ぼくの力も高まることにもなる。そして二つの《闇》をうまく合わせて互いを高めあえば、その欲望と力は際限なく膨れ上がるのではないか。このことは《闇の気》の操作にとって、非常に重要な知識だと思えた。 これが《闇の気》特有の現象なのか、それとも他の《気》にも同じことが言えるのかは、ぼくの経験では分からない。判断する材料があるとすれば、 《気》に関するちょっとした考察の間、カレンは内なる衝動にさいなまれながら、勝手に苦しみ続けていた。 一体、どうしたらいいのか。 ぼくが近づくと、かえって《闇》を活性化し、苦しみを強めるだけかもしれない。 いや、むしろ、抵抗せずに完全に飲まれたほうが楽なのではないか? なまじ抵抗するものだから、心を削られるような思いをするというのに。 大体、ぼくだって、自分の中の《闇》を完全に制御できているわけではない。何しろ、この力を手に入れて、まだ一日も経っていないのだから。 カレンなんて、ずっと前から知っていたはずじゃないか。 それなのに、どうして今さら受け入れることを拒むばかりか、素人みたいに制御に苦しんでいるんだ? ぼくは答えを知るために、観察を続けることにした。 手慰みのために、グラスに挿した花一輪を念動力で再び手にして、色を自由に変えてみる。 黄色は人の理性で、紫は邪霊の欲望。この二つが もしも、欲望や衝動一色に染まればどうなるか? さすがに、それは困る。欲望を高めようとする余り、相手が人でなくなってしまうことは避けないと。 それなら、とにかくカレンの《闇の気》を減らさないことには。 ぼくは花で遊ぶのをやめ、カレンから離れるために部屋の反対側に動いた。 そこにあったグラスに花を戻してやると、またも一つ思いついた。 カレンの《闇》の許容量をたとえるなら、せいぜいグラス一つ分でしかない。 それに対して、ぼくの許容量は、少なく見てもバケツ一杯分ぐらいはあるんじゃないかな。 だから、ぼくがちょっとした遊びの気分で放出した《闇の気》の量が、カレンには膨大すぎて、処理しきれないのではないだろうか。 口付けを求められたカレンが、『そんなこと……できるわけない』と拒絶したのは、口付けという行為そのものを拒んだのではなく、口付けを通じて、ぼくの高ぶった《気》を吸い取ることだったのだろう、と今ごろ気付いた。 いくら心の中を読みとれると言っても、多くの情報の中から肝心なものを選びとれないんじゃ仕方ない。 今のカレンを助けるのは簡単だ。 こちらが《闇の気》の発散を抑えこみ、ほんの少し彼女の中から吸い出してやればいい。 ぼくは慎重に部屋を横切ると、カレンのそばに歩み寄った。 意思の力を総動員して衝動に抗い続けていた彼女も、そろそろ限界が近いらしい。 潤んだ青い瞳は気丈な戦士の光を失い、怯えた少女のものと変わらない様子で、ぼくを見上げていた。 「リオ様……ダメ……よして」かすれた声で、拒絶の言葉を漏らす。 「大丈夫だ。ぼくに任せて」そう言うと膝まづき、カレンの顎を右手の指で支え、そっと口付けしてやる。人工呼吸とは逆の要領で彼女の呼気を吸い込むと、体の震えが次第に収まるのを感じた。 わずか十秒足らず。それだけで、カレンの中の《闇》はほぼ静まった。ぼくの方も、特に悪い影響は感じない。 顔を離すと素早く立ち上がり、次いで、カレンに右手を差し出した。 「立てよ。もう、問題ないだろう?」 カレンは戸惑っていた。先ほどまで彼女を脅かしていた相手が、急に優しさを示したことを受け入れ難いのだろう。 「ええと、今はリオ様なの?」 どうやら、まだ誤解しているらしい。ぼくはずっとぼくなのに。 それでも、彼女を安心させるために、あえて嘘をつくことにした。「心配ない。《暗黒の王》は去った」 カレンの右手が、ぼくの手をつかんだ。 「ごめんなさい、うかつだったわ」 ぼくに支えられたカレンは、急にしおらしくなった。 「まさか、《暗黒の王》の力があそこまで強大だったなんて。私の力じゃとても太刀打ちできない……」 そうなのか? こちらが油断して《気》の操作ができないうちに、奇襲攻撃を仕掛けたりしたら、あっさり倒せると思うけど。肉体面では、しょせん人並みのアスリートレベルでしかない。 だけど、《気》の力に敏感な星輝士や邪霊にとっては、違った感覚なんだろうな。 強大な《気》を操れる相手に対しては、本能的に恐怖と威圧の念を覚えてしまう。 まして、カレンの高まった《気》は、ぼくが吸い取ったのだ。つまり、今の彼女は牙をもがれた獣も同然か。 「君は怖れているんだね」ぼくは、カレンと向かい合わせに立ちながら、自分の観察の結果を淡々と口にした。 それだけで、彼女の身が強張る。少女の怯えと、気丈な戦士の誇りが反抗心を形作りそうになる。 「ぼくを、じゃない」反抗の的をそらしてやる。「もちろん《暗黒の王》でも。君は力で屈服させられる 「な、何を?」彼女の反発心が、戸惑いに変わった。 「君が怖れているのは、君自身の心の闇が高まること。君が君でなくなること、そうじゃないのかな?」 「どうして、そんなことを?」 「ぼくが、そう感じているからさ。自分が自分でなくなってしまうことの怖れをね。自分が抑えられず、望まぬままに人を傷つけてしまう、これほど恐ろしいものはないって」 「リオ様も?」 そう、ぼくの言葉に嘘偽りはなかった。 いかに邪霊に心をむしばまれたとしても、好んで人を傷つけたりはしたくない。 あの悪夢の中で自我を失い、獣人と化して、スーザンを殺害してしまった記憶は、忘れてしまったわけじゃない。 抑制できない力は、たやすく人を傷つける。それを避けるためには、力の使い方をきちんと学び、正しく扱うしかない。 「カレンさん、あなたが《暗黒の王》を呼び出そうとしたのは、彼が《闇の気》を自由に操れるから。そう言ったよね」 ぼくは《暗黒の王》があたかも他人であるかのように言った。 そう信じることで、カレンが安心できるなら。 「ええ」彼女はうなずく。 「それは、力を高めるためでなく、高まる力を抑えるため。そういう理解でいいのかな? 君は決して《闇の気》に支配されようとは思っていない。人として、自分自身を保ちたい、そう望んでいる」ぼくはカレンの心を正しく言い当てたと確信した。だって…… 「ぼくも同じ気持ちだから」そう付け加えて、相手の反応を確かめる。 カレンは安堵の表情を浮かべて、うなずいた。「そういうリオ様なら……私のこと、きちんとお話しします」 これは、彼女にとって重大な決断だ。 ぼくは勝利の手応えを感じて、内心でガッツポーズをとる。 彼女は自分で倒した椅子を立ち上げ、腰を下ろそうとしてから、思いついたように問い掛けてきた。「胸の傷、治療しましょうか?」 「いや、いい。自分で治せる」ぼくは断ることにした。 彼女が心を開いてくれたのは嬉しいけれど、今、カレンに胸を触られたりしたら、抑えている《闇》を制御できる自信がない。 だからクールぶって強がりを言う。「あれぐらいの攻撃じゃ、ぼくは倒せないよ。ロイドにやられた時の方が、よっぽど強烈だった。君には戦いは向かないんじゃないか」 その瞬間、余計なことを言った、と思った。 カレンの目が戦士の冷ややかさを帯びる。「あれは、ただの牽制のつもりだったから。本気なら麻痺毒ぐらいは仕込みます」 カレンは毒を使うのか? だったら、彼女の作るコーンスープにも、もしかして? 怖い想像になりかけて、肝を冷やす。 カレンがもしも心の闇に完全に支配されてしまったら、いかに《暗黒の王》であっても、口にした食べ物に致死毒を仕込まれて、あっさり散ってしまうことになりかねない。 やっぱり、カレンを怒らせるのはやめよう。 ぼくは、きっぱり決意した。 食べ物ぐらい、安心して口にしたいじゃないか。 ぼくはベッドに腰を下ろすのをやめた。 自制心を保つには、カレンと距離をとった方がいいかもしれない。 それに、彼女の昔の話は、決してくつろいだ気分で聞くようなものではないだろう。 カレンの決断に応じて、こちらも可能な限りの誠意を示したいし、真実の重さに備えてもおきたい。 そこで壁に背をもたせかけ、例のグラスから再び花を手にとる。 「カレンさん、話を聞く前に準備しておきたいことがある」 彼女はうなずいて、続きをうながした。 「君の話が《闇》にまつわるのなら、それを聞くことで、ぼくの心に強い衝動が湧き上がるかもしれない。場合によっては……」少し間を置いて、「《暗黒の王》をもう一度、呼び出すことにもなりかねない」 「それは危険ね。どうするの?」 「君が危険を感じたら、ここから逃げるなり、トロイメライを呼ぶなりすればいい。問題は、狡猾な《暗黒の王》が君の気付かない間に、ぼくを乗っ取っている場合だって考えられる。だから……」 ぼくは手にした花をカレンに示した。「この黄色い花が、ぼくの色。理性の象徴だ。そして……」 色を紫に変える。「これが《暗黒の王》の象徴。もしも、衝動が高まり、ぼくの心が《暗黒の王》に支配されそうになったら、できるだけの力で花の色を紫に変えて、君に危険を知らせる」 そう言ってから、花を黄色に戻した。 「その花が黄色いうちは、安全ってことね」カレンは納得した。 《暗黒の王》に支配される云々は作り話だけど、彼女にとっては受け入れやすく、安心できる嘘なのだ。それに、ぼく自身、自分の心をうまく抑制するためには、明確なスイッチを設定した方がいい。 「面白いことを考えたわね」カレンはフフッと楽しそうな笑いをこぼした。「だけど、もっと簡単に《暗黒の王》は見分けられるわよ」 「え?」ぼくは驚いた。作り話なのに、見分け方なんてあるのか? 「あなたは気付いていないかもしれないけど、《暗黒の王》になったら、目の色が変わるのよ。そうしたら《闇の気》も高まるので、すぐに分かる」 ああ、確かに。 目の色が変われば、別人格だとカレンは解釈しているのか。 「そうなんだ」ぼくは今初めて、それに気付いたような反応をしてみせた。 すると彼女にとって心を読むような技を使っているぼくは、本来のカート自身ではなくて《暗黒の王》なんだろうな。まるでカレンにトロイメライが憑依したように、カートに《暗黒の王》が憑依したと考える方が、本人にとってはいかにも自然な発想なのだろう。 それに花の色を変えるような作業なら一瞬なので、瞳の色の変化も目立たない。だけど、相手の考えを読むには多少の時間もかかるし、同時に相手の表情も読み取ろうとするので、顔を向かい合わせる機会も多い。こっそりのぞき込むのでなければ、目の色の変化は明白だろう。 「じゃあ、花の目印は無駄ってことかな」せっかくのアイデアも、何だか空回りしたかもしれない。そう思って口にすると、 「いいえ。そんな洒落た気遣いを考えるなんて、見直したわ、カート」 名前で呼ばれたことで、思わず動揺してしまい、花の色を変えてしまう。 「え、《暗黒の王》?」 「いや、これは違うんだ」慌てて元の黄色に戻す。「びっくりしたから思わず……」 「分かりやすい反応だけど、少しナイーブすぎない?」カレンは呆れたように言ってから、穏やかな顔を見せた。「良かった。あなたがあなたのままでいてくれて」 「そ、それは、どういうこと?」 「《暗黒の王》の力は《闇》として頼り甲斐があるけれど、いつでも緊張させられっぱなしというのも、どうもね。普段は優しいリオ様でいてくれると、こっちも安心できるってこと」 「だったら、そっちも優しいカレンさんでいてくれる?」 「お互い、普段はそういう関係でいましょう」 相手がそう言ってくれて、ぼくも安心した。 虚飾の仮面であり、本当は別の顔を持っていたとしても、お互いそれを理解して上手く演じ分けていけるなら、これまでどおりの日常生活を送るには支障ないと思う。 要は、場や局面に合わせた表と裏の使い分けが大切だということだ。 さらに一つ、準備したいことがあった。 自分で制御できることならいいんだけど、ぼくはすでにスーザン殺害という失態を経験している。夢の中だったから、取り返しは付くのだけれど。 それに前夜のこともある。あれは、ぼくとカレンがどちらも衝動に飲まれて、自制できなくなった結果だと思うことにした。 そういうことは繰り返してはいけない。 自分で抑えられないなら、トロイメライの術に頼るしかない。 ぼくは、夢で獣人ラーリオスを封じ込めた結界の術を思い出した。あれを使うことができれば。 仕組みはよく分からないけど、自分に掛けられた《気》の技は本能的に扱える。逆に言えば、自分に掛けられたわけではない技、たとえばバトーツァが懐から遠く離れた品物を取り寄せるような便利な小技の類は、きちんとした手順で学ばないと使えないのだろう。 ラーリオスといえども、決して万能ではない。 それでも、経験したことは無駄にはならない。問題は、夢で経験したことを現実にも使えるのか、ということだけど。 魔力を宿した左手を高く掲げ、トロイメライがするように、空中に何かの紋様を描こうとする。ぼくには紋様の知識はないけれど、星輝石だか醒魔石だかの導きによると、何となく円で囲まれた四角形がふさわしいように思われた。見慣れた もちろん、素人の作るものだから、じっさいの効果はないかもしれない。それでも、自分を封じるだけだから、まやかしめいたものでも構わない。ただ、カレンを安心させるとともに、自己暗示でぼくの《闇》を抑えつけるだけで十分。いや、まやかしにしても、高ぶった力を安全に消散させるだけで意味はあるはずだ。 黒いゴシック調の手袋から、赤い光が放たれ、曲線と直線を構成する。 ふと思いついて、右手でもう一つの正方形を描くことにした。そこから放たれる光は氷をイメージする青。『動きを封じるのは得意だ』と、ジルファーは言っていた。 円に包まれた赤い正方形と、青い正方形が異なる角度で重なり合い、 「一体、何をしたの?」さすがに、カレンもぼくの動きが気になったのだろう。黙って見ていたものの、作業が一段落したタイミングで問い掛けてきた。 「結界で《暗黒の王》が出て来れないよう封じ込めてみた」 「そんなことができるの?」 「トロイメライのやり方を参考にした。念には念をと思って。気休めかもしれないけど」 「ラーリオス様は本当に天才ね」 そういう褒められ方は初めてだったので、何と答えていいか分からなかった。 イエスとも、ノーとも言えず、ただ「《暗黒の王》に負けるわけにはいかないからね」と返すだけにした。自分の心の闇に負けたくないという意味では、別に嘘をついたつもりはない。 結界は、じっさいに機能した。 そこに現実の壁があるかのように、ぼくは出られなくなったのだ。 自分で結界を消すことができるのか、少し不安になったけれど、いざとなれば専門家を呼べばいい。 そんな動揺を示さないように、悠然と結界の見えない壁にもたれかかった姿勢で、ようやくカレンに話をうながした。 「何から話したらいいかしら」いざ話そうとして、カレンは戸惑っているようだ。 「君がカレン・アイアースじゃなくなった時……でどうかな?」ぼくは、トロイメライと見た映像のことを思い出しながら言った。 「そうね。やっぱり、そこからになるわね。私の運命が変わったのは」悲しく暗い口調で、彼女は語り始めた。 彼女の紡ぐ物語が、ぼくの脳裏でトロイメライの見せた映像とシンクロする。 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ 金髪の少女が、男に抱かれていた。 それは、純粋無垢だったカレンが穢されたときだった。 ぼくが見た夢の映像では男の姿がはっきりしなかったけれど、トロイメライがカレンの記憶と絡めて巧みに編集した映像では明らかだった。 「ソラーク?」ぼくは驚きのあまり、声を出した。 「確かに似ているけれど、別人よ」トロイメライが指摘した。「年齢から考えなさい」 カレンは、まだ幼さを残した顔立ちであるのに比べて、ソラーク似の男はよく見ると老けていた。口髭だって生やしており、心を惑わせる動きを伴わない静止画像なら容易に判別できただろう。 「ソラークの父ラビック・アイアース。それがワルキューレ、カレンの初めての男……ということになるわね。そして、あの娘の悪夢の始まり」 「父親が娘を……?」それだけで、ぼくには受け入れ難い事実だった。 「正確には違う」あくまで冷静にトロイメライは解説を続ける。「ラビックは、ソラークの父だけど、カレンにとっては血縁関係にない人物よ」 「どういうことだ?」ぼくは、今は亡きアイアース家の家庭事情に踏み込む質問をした。 「ソラークの母親ケイトは早くに亡くなって、ラビックは愛人のイザベルを後妻に 「だったら、そのままずっと娘として扱えばよかったじゃないか。それが、どうしてこんな……」 ぼくは映像を正視できずに、目を背けた。 それまで自分の娘として育ててきた相手、自分を父親だと信じてきた相手に対して、よくも卑劣なマネができたものだ。 ぼくは、ラビック・アイアースという男に、強い憤りを覚えた。 「ラビックを擁護するつもりはないわ。ただ、彼の感情を分析すると、アイアースの血筋に誇りを持っていたの。だけど、家族の中に血筋と関係ない娘がいるという事実が許せなかった。おまけに、カレンはイザベルによく似ていたのね。ラビックは、自分を騙したイザベルが許せず、その憎しみと歪んだ愛情がカレンに向けられた。それに、ラビックの中では、自分が抱くことで、カレンをアイアースの一員として受け入れられると考えた。元々、他人なのだから、妻にはなれないまでも、愛人としてなら認めてやってもかまわない、と」 「そんな自分勝手な考え方が、今の時代に通用するわけないじゃないですか!」 「そう考えたのは、あなただけじゃないわ」 トロイがそう言うと、映像が切り替わった。 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ 「父に抱かれて、私は女になったの」カレンは自嘲するようにつぶやいた。 「最初は抵抗したけど、だんだん仕方ないかと思うようになった。母は娼婦だったみたいだし、本当の父親は誰だか分からない。父が見捨てたりしたら、私はアイアースの家にはいられなかったのよ。だから、私は自分の居場所を守るために、父の求めに応じることにしたわけ。家を出ても何とか生きていけると考えるほど、当時の私は強くなかった。それに、父は歪んだ形にしても、私を愛してくれたわ。いつの間にか、私はそういう関係に満足すら感じるようになっていったの。あなたから見れば、ふしだらに見えるかもしれないけど」 「ぼくには……そういう女性の気持ちは分からない」そう言わざるを得なかった。「《暗黒の王》じゃないから。そういう背徳な行為に喜びを感じるのが《闇》……なのかな」 「父は私をこう呼んだわ。お前は『リリスの子』だって。意味が分かる?」 リリスが、『聖書』に語られるアダムの最初の妻だという話は有名だ。ラビックは、自分を裏切ったイザベルをリリスにたとえ、その娘のカレンに不名誉な称号を与えたと言える。 リリスは背徳の魔女であり、リリムと呼称されるその子もまた悪魔に分類される。父親から悪魔呼ばわりされた娘は、どうしたらいいのだろう。 悪魔である自身を受け入れるか。 それとも悪魔であることを恥じて、身を浄めることを望むのか。 「カレンさんは、『リリスの子』であることを恥じて、父親の手で浄められることを選んだんですね」 「ええ、父は敬虔なキリスト教徒だった。母と私のことで狂気に陥ることがなければ、今もそうだった、と思う。私は父に身を任せることで、自分が救われると思い込んだ……」 カレンは、父親を憎んではいない。むしろ、愛している。 だけど、ぼくにはそのカレンの気持ちが理解できない。 だから……ソラークに強く感情移入した。 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ 「父さん、あなたという人は、何をしているのですか!?」 ラビックとカレンの禁断の情交は、ある日、息子のソラークの知ることとなった。二人の抱き合う寝室に彼が踏み込む光景を、トロイメライの映像は示した。 「実の娘ですよ。それを、こんな恥知らずな……」 ソラークはまだ若かったけど、潔癖で毅然とした態度は今と変わりないように思えた。 「ソ、ソラーク。これには深いわけが……」ラビックの弁明は、後に《風の星輝士》となる男には聞こえていなかった。 「ええい、問答無用。あなたのような破廉恥な血が自分にも流れていると考えると、虫唾が走る。この忌まわしい所業、成敗してくれる」そう言って、寝室の壁に飾られていた儀礼用の剣を手にとる。 当時のソラークは若すぎた。激した感情を抑えきれず、ぼくの知る冷静で落ち着いた物腰を、まだ身に付けてはいなかった。 「兄さん、やめて。殺さないで!」カレンの悲鳴が響いたけれど、ソラークの耳には届かず、憤りのままに実の父親を殺害に及んだのだ。 「まるで、ギリシャ悲劇か、シェークスピアといったところね」トロイメライの声は、どこまでも冷淡だった。 正義が悪を成敗する話なら、勇壮な音楽が鳴り響き、ソラークの情熱を称賛するだろう。 あるいは、ラビックがもっと抵抗し、強大で恥知らずな悪役ぶりを披露していれば、派手なアクションで悲劇を上塗りしていただろう。 だけど、この映像には、それはない。 ただ、カレンの感じた悲劇を淡々と映し撮っただけ。 カレンの目には、この時、ソラークは愛する父親の命を奪った大悪人として見えていたのだ。 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ 「兄さんは、私のために父を殺したの」カレンは極力、感情的にならないよう、淡々と語り継いだ。 その様子に、トロイメライと同種の冷たさを感じたものの、哀しみを感じていないわけではない。感情がある段階を越えると、人は心を麻痺させることで、受け流そうとする。そうでない限り、自分の心の闇に飲まれることにもなりかねない。制御できない感情は、ぼくたちにとって危険だ。 ぼく自身、アイアース家の悲劇を初めて見知ったときは、ソラークに感情移入し過ぎて、我を忘れるところだった。カレンの夢の中に直接、踏み込んでいれば、ソラークの代わりに、ラビックを殺害していたかもしれない。それで何が変わるかは、分からないけど。 もちろん、距離を置いてみれば、相手の話もろくに聞かずに、後先わきまえることなく殺害に及んだソラークの短絡さを批判することもできる。そして、それは本人が一番、痛感していることだろう。これもまた、 ランツが語った噂によれば、『ソラークは妹のために、人を何人も殺したことがある』という。それを聞いたときは半信半疑だったけれど、カレンのために父親さえ殺害した男だ。もしかすると、そこから一線を踏み越えたとも考えられる。 この事件が、ソラークとカレンの二人の心に闇を植えつけたのは間違いないだろうし、今後、ソラークをぼくたちの側に引き込むための材料にもなるかもしれない。 そう冷静に考える自分にも嫌悪を感じ、花の色を変えたほうがいいのかな、と一瞬、考える。《暗黒の王》は他ではなく、確実に自分の中にいるのだ。 だけど、当事者のカレンが乗り越えた昔の事件だ。過ぎた話に、いたずらに感情移入しても仕方ない。ここは心を麻痺させて冷然と乗り切る選択をした。 「ソラークは……君が本当の妹ではないという事実を知らないんだね」確認の質問をする。 「少なくとも、私からは話していないわ」カレンはつぶやいた。「よっぽど打ち明けようと思ったけれど、兄まで失いたくなかったから」 「お兄さんを愛している?」 カレンはうなずいた。「最初は憎んだわ。父を殺して、私の居場所を奪ったのは兄。だけど、兄が警察に自首すると言ったとき、私はそれを止めたの。一人にしないでって。だから私たちは屋敷を燃やし、殺人の痕跡を分かりにくいようにしてから、アイアースの名前を捨てて逃亡生活に入った」 「その後、ゾディアックに拾われた、と」ぼくは結論した。 トロイメライと見た映像は、ソラークの父親殺しの場面で終了して、後の話は彼女が語るのを聞いただけだ。 「あなたは、どこまで知っているの?」カレンが尋ねてきた。「トロイメライはどこまで教えたのかしら?」 「君がゾディアックの中では救われず、彼女だけが君の理解者だという話を聞いた」 「抽象的な言い回しね。私とトロイメライの出会いの話は?」 「そこは聞いていないな」ぼくは認めた。「大切な話なのか?」 「それを抜きにして、私と《闇》の関係は理解できないと思うの」 「だったら教えて欲しい」 カレンは一瞬、考え込んでから、意を決したような面持ちになって、続きを語り始めた。 |