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プレ・ラーリオス

夜明けのレクイエム(4−4)


 
4ー4章 イーヴィル・スピリット

 私が邪霊に憑かれたのがいつなのか、はっきりとは分からない。
 おそらくは、父がすでにとり憑かれていて、交わりを通じて私の中にも入ってきたのだと思う。だけど、父が故人である以上、確かな証拠はないわね。
 ただ、自分の中の邪悪な存在に気付いた日付けは、しっかり覚えている。
 2009年5月8日。
 その日、フランスとドイツの国境沿いではまだ、新型インフルエンザの話題は広がっていなかった。兄と身を潜めていた安宿のベッドで、私が熱を出して寝込んだのも、インフルエンザが原因ではない。
 旅の疲れがたまっているのだ、と兄は言い、私もそう信じることにした。

 アイアースの名前を捨てた私たちは、兄の運転する車で、当てのない逃避行を始めたの。
 まずは国を出ることだけを目指した。
 向かう先にドイツを選んだのは、適度な大きさの都市があり、失業者も多いというかの国の方が、余所者が身を隠すのに向いているとの判断よ。かつては東西に分かれていた国の合併以来、経済は悪化したとも言われていた。だけど、EU諸国の中では統計的に恵まれた状態にもあり、それはすなわち上下の格差が進行していたということ。
 貧しい者にとっての格差は、そこから抜け出すことが困難だという理由で批判される。
 でも、富める者や才能に恵まれた者には、自分たちの持てるものを有効に使うことで、さらなる発展が望み得る社会と言えるわね。
 立場が変われば、物の見方も大きく変わる。
 私は自分が恵まれた側にいると感じたことは、あまりなかったわ。
 アイアースの家に入ったのは8才の時。それまで、私は父親を知らずに育ったの。
 そこから後は、慣れない家の流儀を覚えたりすることで忙しく、豊かな生活にもどこか違和感を伴って、自分の居場所だと感じられるようになるまで時間が掛かった。ようやく馴染んできたと思ったら、12の時に母が急な病で亡くなり、私は一人、取り残されることになった。
 いかに満ち足りた生活を送っていても、運命の落とし穴はいつ人を奈落に引きずり込むか分からない。私にとって、人生は常にそういうものだった。

 だけど、その逃避行は私にとって、それまで知らなかった自由を満喫できた、とも言えるわね。
 アイアース家は、私にとって鳥カゴのようなものだった。
 餌は与えられるけど、しょせんは父に愛玩されるだけの存在。
 そこから解放されて初めて、私は自分自身になれたと考える。
 確かに、逃亡生活の不自由は強いられたけど、屋敷から持ち出した宝石や装飾品などのおかげで、当面の生活は支障ないように思えた。もちろん、現実的な兄はいろいろ頭を悩ませていただろうけれど、世間知らずの私はあまり気にすることなく、まるでバカンスのような気分を味わってもいた。
 そう、最初は父と家を奪ったソラークを憎みもしたけれど、すぐに新たな保護者として、甲斐甲斐しく振る舞おうとする彼を受け入れ、許すようになった。私から奪ったものを、一生懸命償おうとしてくれる。そうした兄の心遣いが伝わってきて、私は心底、安らぎを感じたの。
 それは、人を愛しながらも強権的なやり方しか知らなかった父とは別の、真心からの愛情に思えた。失ったものよりも、得たものの方が大きく価値がある。そう思うことで、私は変化を歓迎することにした。
 宿では、兄はラークス・ロッシュの偽名を使い、私も彼の母ケイトの名前を選んだ。捜査の目をごまかすために、ラークスとケイトは兄妹ではなく、仲睦まじい若夫婦ということにした。私は兄さんと呼ぶ代わりにラークスと熱っぽく呼びかけ、兄は照れたような表情を浮かべてケイトと返す。この役割演技も私は楽しんだ。
 
 私が原因不明の高熱を発したのは、旅を始めて数日後のことだった。
 もしも、疫病の噂が広がっていれば、私は宿から追い出され、病院に隔離されることになっていたかもしれない。そうなれば、私たちの身元が暴かれ、兄は殺人者として捕まっていたろう。
「医者を呼ぶ」と、ソラークは悩んだ末に決断したのだと思う。
「呼ばないで。すぐに治るから。私を一人にしないで」私はそう言って、兄を引き止めた。
 そこで、一晩は様子を見よう、ということに落ち着いた。
 旅慣れない妹が、不安と精神的衝撃にさいなまれて体調不良を起こした。ソラークはそう考えたらしいけど、じっさいは違っていた。私は、父の死をあっさり受け止め、旅を楽しんでいたからだ。
「兄さんさえいれば大丈夫」熱に浮かされた頭で、私はそう弱々しく、だけど決然とつぶやいた。
 私に不安があったとしたら、それは兄と引き離されること。
「カレン、お前は疲れているんだな」ソラークも、どこか疲れた表情でそう応えた。
「兄さんも?」私は気になって尋ねた。
「大丈夫だ。これぐらいの疲れなら、これまでも乗り越えてきた」
 嘘だ。
 兄は嘘をつくときは、瞳を閉じる。相手に視線の揺れを読ませないようにするために。
 いつもは真っ直ぐ揺るぎない視線で人を射抜くソラークが瞳を閉じるのは、嘘をつくときか、それとも迷っているとき。
「そう。ただの疲れだから、私もすぐによくなるわ」口にすることで、私はそれを信じて、決意を深めた。
 兄といっしょにいるためには、自分も強くならないといけない。足手まといになったら置いて行かれるか、あるいは私のために自分を犠牲にするだろう。どちらにしても、私は一人きりになる。
 やはり警察に自首した方が……と弱気になりそうな兄を支え、才能豊かな兄に追いつくために、私は力を望んだ。
 すると、その夜、熱に浮かされて朦朧としかけた頭の中に、その声が聞こえてきたのよ。
『そなたの望み、確かに受け取った』
 夢なのか、ただの幻聴なのかも分からないけれど、自分の中の何者かの意思を私は確かに感じたわ。
 まるで天啓のように聞こえたその声は、後で悪魔のものだと分かったのだけど、私にとってはどちらでも良かった。
 だって、私は「リリスの子」ですものね。
 弱い自分に力をくれて、望みをかなえてくれるなら、何にでも魂を捧げる覚悟はあったの。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「その声が、もしかしてトロイメライ?」
 ぼくは、カレンの告白に口をはさんだ。これは、彼女とトロイメライの出会いに関する話だ。
 夢の中に登場する《闇》への誘惑者、その様子はまるでぼくの時と同じだと思った。だけど……
「違うわ」カレンは明確に否定した。「その声は、名もない邪霊よ。名前は付けないようにしている。名付けると、もっと《闇》の力が増すらしいから。私が抑えられないほど力を付けたら、始末に負えないわ」
「その邪霊は、今も君の中に?」
 今度は、肯定のうなずきが返ってきた。「トロイメライが出てくるのは、もっと後。誤解しているようだけど、彼女が《闇》を植えつけたんじゃないんだから。私は彼女と出会った時点で、すでに《闇》に支配されていたのよ。そして、今も私の中にいて、心を支配しようと狙っている」
「……つまり、トロイメライやゾディアックとは関係なく、《闇》は存在しているんだね。トロイメライが動かなくても、邪霊が人に憑くことはある」
「そういうこと」カレンは真剣な表情でうなずいた。「私のようなケースが今、世界でどれほど頻繁に起こっているかは分からないわ。だけど、邪霊は確実にはびころうとしている。星霊皇の封印も今は完全ではない。世界を脅かすような大物は出て来なくても、人一人を堕落に(いざな)うレベルなら、あまり珍しくはないみたい」
「それを止めるのが星輝士の仕事」
「ええ」カレンはさらにうなずいた。「本来はそういう使命があったらしいけれど、その手の知識は失われて久しいわね。バトーツァが話していたことを、あなたも聞いていたでしょ?」
 確かに、ライゼルとの星輝戦争を始める際に、神官殿がいろいろ説明していたな。
 整理すると、星霊皇の力が枯渇して封印が弱まったから、邪霊が人知れず復活して、悪事を為しているのだと。
「邪霊を復活させているのは、トロイメライじゃないのか?」てっきりそうだと、ぼくは考えていた。「邪霊の力を使って、光に満ちた星霊皇の時代を覆し、暗黒の新時代を築こうとしているんじゃないか?」
「星霊皇の時代を変えるのは正解。でも、暗黒の新時代って何?」カレンは首をかしげた。
「え? 当然、《闇》が全てを支配する世界……じゃないの?」
「……それは、あなたの考え? それとも《暗黒の王》の考え?」カレンの言葉は冷ややかだった。
「どっちだろう」ぼくは手の中の花の色を明滅させた。「とにかく、トロイメライはぼくを《闇》に引き込んだじゃないか。その調子で、星輝士たちをみんな《闇》に引き込み、復活してきた邪霊を支配して、世界中の人たちにとり憑かせたりして、暗黒が世を統べる理想郷を作るのが目的じゃないの?」
 カレンは拳を握りしめた。「それが本気なら、私があなたをこの場で成敗するわ。邪悪の化身としてね」
「ちょ、ちょっと待って」ぼくは慌てた。「今のは、邪霊の考え方を予想しただけだって。ぼくが、そんなことを本気で考えるわけないじゃないか。君を敵に回したくはない」
 カレンの、ぼくを見る目は冷たいままだった。
「……信じてないな」
「言ったはずよ。《闇》の世界に信頼は期待できないって。うかつな言動には気をつけることね」
「すると、ぼくも君のことを信用してはいけないのか?」
『ワルキューレを信用しないこと』というトロイメライの言葉がまたも頭をよぎる。
「そうね。私だって、自分を信用できないんだから、他人に信用して(トラスト・ミー)、なんて言えた義理じゃないわ」
「……それでも、君はソラークを信用している」
「……彼は《闇》じゃないもの。あなたよりは、よっぽど信頼に値するわ」
 ぼくは、自分が《闇》を選択したことを後悔した。
 カレンに導かれて《闇》に踏み込んだら、彼女の信用を失うなんて、皮肉な話だ。
「ソラークを《闇》に引き込もうと思ったことは?」
「あるわ」カレンは弱々しくつぶやいた。「……でも、できなかった」

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
 熱を出した翌朝、私は元気になっていた。
 悩みもすっきり消え、体調もすこぶる良く、自分が一回り大きくなったような爽快ささえ感じていた。
 起きたとき、ソラークはベッドにはいなかった。
 今朝のあなたと同じように、椅子に腰かけていたわ。
 それまでも、夫婦用の寝室にあてがわれたダブルベッドを共に使うことはなく、ソラークはソファや床に寝て、私には触れないようにしていた。
 父と寝たことで傷ついたであろう私に気を使ってくれているのか、それとも穢れたものに触りたがらない心境なのか。いずれにしても彼の潔癖さは、父親とは好対照だった。
 そして、父に仕込まれた私自身とも。
 今朝のあなたとちがって、ソラークはまだ起きていなかった。
 私の方が先に起きて、彼の憂いに満ちた寝顔をじっくり観察することができた。
 美しい。
 それまで感じたことのない想いがよぎった。
 私は兄を兄ではなく、一人の男として意識した。

 私がソラークを知ったのも、8才の時。
 その時の彼は私より5才上の13才だった。
「君がぼくの妹なんだね。カレン、これからよろしく」
 兄はさわやかな笑顔でそう言って、私に右手を差し出した。私はおずおずとその手をとって、「よろしく。ソ、ソラークさん」と返した。
「兄さんでいいよ。兄妹なんだから。新しい母さんと、かわいい妹。こっちも、これからしっかりしないとな」決意するように、私の手を握りしめるその手は暖かく、力強かった。
 新しい環境にどこか怯えていた私の気持ちは、彼の手に包まれると溶けていくようだった。格好良くて優しいお兄さんを得られて、私の心は少女らしく弾んだ。

 ソラークはアイアース家の一人息子として、父からも大いに期待をかけられていた。
 高等教育を施され、成績抜群。運動神経もよく、フェンシングの大会で優勝したこともある。何でもできる立派な兄だった。
 それだけ優秀だとさすがに普段から何かと忙しく、私といっしょにいられる時間は少なかったけれど、たまに勉強を教えてくれたり、社交界の話などで私を楽しませてくれたりした。
「カレンを初めて見たとき、妹だと分かったよ」ソラークはそう言ってくれた。「同じ髪の色と目の色なんだからね。イザベル義母(かあ)さんだって綺麗な人だし、死んだケイト母さんによく似ている。最初、父さんが再婚すると聞いたとき、いろいろ不安だったけど、今は満足している」
 ソラークは明朗快活な人柄で、引っ込み思案な私にとっては太陽みたいにまぶしかった。
 私の人生に射した初めての光がソラークだった。
 自分が将来、誰かと結ばれるなら、ソラークのような人、と少女心に考えたりもした。
 だけど、私の無垢な望みは、あろうことかソラークの父親によって砕かれた。
 父と信じた人が父ではなく、兄と信じた人もそうではないと知ったとき、私の中の光は闇に染まったのね。

 父が、私の中に亡き母イザベルを見い出しているのは、すぐに分かった。
 いいえ、イザベルの中に、先妻のケイトを見ていたのだとも思う。
 父は現実の女ではなく、死んだ女の幻を追いかけていたのだ。
 父は、私に母と同じように振る舞うことを求め、私はじきにそれを受け入れた。
 自分の中に母がいると感じることは、私にとって現実を忘れ、自分を慰める手段となった。母が父を愛したように私もすることで、カレンではなくイザベルがそうしているのだと思うようにした。
 私がそんな父と母の闇から解放され、カレンとしての自分を取り戻せたのは、ソラークのおかげと言っていい。
 彼といっしょなら、私は光の世界で生きていける。
 窓から差し込む夜明けの光に照らし出されたその寝顔を見つめながら、私は自分の心、ただの憧れから愛情に変わった想いを確かめていた。

 やがて目を覚ましたソラークは、私が元気に身を起こしているのを見て、安堵の笑顔を見せた。
 憂いは消え、本来の快活なソラークがそこにいた。やっぱり、彼は夜の闇よりも、朝の光の中にいる方がずっといい。
「カレン、今日は一日、ここに泊まろう。国を出るなら、いろいろ準備もしたいし、車の燃料だって補給しないと。昼の間にいろいろ動いて、一晩休んで、明日の朝に出発だ」
「分かったわ。私に何かできる?」
「ん〜、そうだな」ソラークは私の顔をじっと見た。そのとき、心臓の高鳴りをはっきり感じたわ。
「宿でずっと休んでいろ……と言っても聞かないだろうな」私の性格をきちんと踏まえてくれているのも、嬉しいこと。
「当たり前よ。兄さん一人に頼れないわ。私だって、力になりたいの」
「だったら、重要な仕事だ。ドイツの観光ガイドを何冊か買ってきて、いろいろ読んで調べてくれ。ネットが使えたら必要ないんだが、うかつに通信すると、そこから足がつくかもしれないからね。ハッキングのこととか、もっとしっかり勉強しておくんだった」
「兄さんは十分、勉強したわ」
 16でハイスクールの過程を修了し、17で父の事業の手伝いをしながら、通信教育で大学の単位を取得していって、修士課程にまで進んでいた兄のことだ。私なんかとはよっぽど質が違う。
「学業と現実は話が違う」兄は決して驕ったりはしない。「2人で新しい生活を続けるなら、分かることは何でも知っておかないと」
 2人で、という言葉が私を安心させた。
 ソラークが私を置いていくことはない。そう確信できて、私はいろいろ忙しい彼を送り出した。
 そして私も言われたとおり、詳しいガイドブックを購入し、部屋で読みふけりながら、未知の国への想像の翼を広げる時間を満喫していた。
 この時、私たちの未来は光に包まれているように思われた。

 夜が来て、私の体は再び発熱に見舞われた。
 ただ、今度の熱は、私を弱らせるのではなく、高ぶらせるものだった。
 熱に浮かされたまま、私は潤んだ瞳でソラークを見つめ、ベッドに差し招いた。
「カレン、また疲れているのか?」いぶかしげな視線で見つめられる。
「そうじゃないの。ただ……抱きしめて欲しい」普段の私とは違う、誰かが喋らせているような感覚だった。「私をあなたのものにして欲しいの。この意味、分かるでしょ?」
「……私は父とは違う」ソラークの目は冷ややかな怒りを帯びた。「お前がそういうことを望んでいるなら、いっしょにするな、と言っておこう」
 その言葉で、私は衝動から覚めて、正気に戻った。
 兄はほんの短い言葉で、私の中の《闇》を鎮めたのだ。
「ごめんなさい」私は自分を恥じた。「ただ、いろいろあって、寂しくて……何かすがるものが欲しくて。自分でもどうしようもないのよ、この気持ち……お願いだから、私を嫌わないで。兄さんに嫌われたら、私……」
「嫌うものか」ソラークは私に近づいて、そばに座って抱きしめてくれた。「カレン、お前はたった一人の妹だ。私に残された、かけがえのない家族なんだ。兄として守ってやるとも。だから、父の行いは忘れろ。それ以上、自分を傷つけないでくれ。汚れた姿になって欲しくない」
 ソラークは、私の中の《闇》を満足させはしなかったけれど、《光》を取り戻させてくれた。
 彼にただ抱かれるだけで私は愛情を感じて、それ以上、踏み込もうとは思わなくなった。
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 カレンの告白は、彼女の作るコーンスープと同じくらい甘かった。
 トロイメライの話に至るまでの前置きで、兄への惚気(のろけ)話を延々と聞かされるのは、新手の拷問か、あるいは何かの罰ゲームか?
「つまり、ソラークは君と肉体関係を持ったことはない、ということだね」ぼくは複雑な気持ちになりながら、何とか適切なあいづちを返した。
 もしも、ソラークが誘惑に乗って、妹を抱く以上の行為に及んだとしたら、ぼくは彼を軽蔑していただろう。
 だけど、ソラークは強い自制心を持った男だということがはっきり分かって、改めて尊敬の念を覚えた。
 それと同時に、自分の弱さを思い知らされ、かなわないなと痛感させられる。
「悪かった」ぼくは素直にカレンに謝った。ソラークに負けないようにできることは、ただ自分の非を認めることぐらいだった。「ぼくは自制できずに、君を汚してしまった。ソラークから奪いとったようなものだ」
「そして、私はスーザンからあなたを奪った。お互いさまよ」カレンは淡々と言った。
「私の中にあるのは《闇》だけじゃない。《光》を求める気持ちだって残っているのよ。ソラークは私の《光》を満足させてくれる。だけど《闇》は満たしてくれない。それはそれで、うまく処理する必要があるわ。だから、あなたに期待した」
「期待どおりに振る舞えたとは思えない」ぼくは、かぶりを振った。「ぼくなんかをラーリオスに選んだのが間違いだったんだ。《太陽の星輝士》だったら、ソラークのような男がよっぽどふさわしいんじゃないか」
「傲慢になったり、卑屈になったり……コロコロ忙しいことね」カレンの言葉が冷ややかに刺さってくる。「もっと、自分に自信が持てないのかしら。それでも《暗黒の王》?」
「君たちは、《暗黒の王》に何を求めているんだ?」ぼくは混乱した思考を疑問にした。「《闇》を受け入れろと言ったり、《闇》を高めるなと言ったり。一体、どっちなんだよ」
「まだ分からないの? 人の世界を守ることに決まってるじゃない。トロイメライも、バトーツァもそう説明しなかった?」
「だったら、星霊皇やソラークみたいな《光》で十分じゃないか」
「《光》だけじゃ、人は救われない」カレンは不意に、悲しそうに言った。「《光》だけの世界では……私のような存在は抹殺されるしかない。害獣と同じようにね」
 ぼくは、自分の高ぶった感情を静め、カレンを見つめた。
「抹殺って、どういうことだよ?」
「星霊皇は、《闇》の存在を一切認めない、ということよ」

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 ソラークは、星輝士になる前から、私の中の《闇》を静めることができた。
 それが兄としての愛情によるものか、生来身に付けた《光》の力なのか、それとも彼の優しさが私の自制力を高めてくれるからなのか、はっきり分からない。
 ただ一つ言えることは、兄との関係性は、私にとってかけがえのないもので、決して汚したくはない、ということだ。

 それでも、私の中の《闇》は着実に成長していった。
 国境を越えて、私たちが最初に身を落ち着けたのは、ドイツ南西部に広がる黒の森(シュバルツバルト)、その北にある人口30万ほどの都市カールスルーエだった。「辺境伯カールの休息所」の意味を持つ都市は、宮殿を中心に太陽光のように道路網が伸びている独特の構造をしている。
 私の発熱を除けば、それまでの旅はすこぶる順調に見えた。
 あの抱きしめられた一夜から後、私はソラークと別の部屋を借りることにした。相部屋よりも宿泊費はかかるけれど、自分の内なる衝動をいつまでも抑えこめる自信はなかったし、兄と同じ部屋では自分を慰めることだってできやしない。
 夜になると気分が高ぶり、昼間は逆に気だるさを覚えるようになっていた。
 日の光が眼に突き刺さるように感じて、サングラスを着用するようにもなった。
 逃避行のための変装用と偽って、兄にも着用を勧める。
 輝く金髪にサングラスをつけた兄は、犯罪者というよりは、お忍びの芸能人か某国の王族らしい気品を備え、かえって目立つようにも思えたけれど、鷹のように鋭い目で周囲を油断なく見張っているよりは、はるかにましだった。挙動不審のハンサムよりは、堂々としているハンサムの方がよほど絵になるし、かえって捜査の目は引かないんじゃないだろうか。

 ただの観光客としてカールスルーエの街を通り過ぎるか、それとも完全に腰を落ち着けるか、私と兄は話し合った。
 兄はドイツ語を話せたが、私は話せない。国境沿いの街ならフランス語も通じるだろうけど、もっと奥に入るなら、私も日常会話ぐらいはこなせないといけない。
 しばらく観光客として街の様子を確かめながら、手頃な住居や仕事が得られるようなら、そこに住み、さもなければ次の街に向かう。無難な結論だったけれど、今後の方針は決まった。
 きちんとした住居や仕事を得るなら、私たちは身分証明をしなければいけない。ラークス・ロッシュや、ケイト・ロッシュといった偽名は、宿に泊まるだけなら十分通用するが、一つの街に完全に溶け込むには、偽造書類を作ったり、諸々の裏社会の手続きをこなさなければいけない。そういう世界は、私には無縁だったけれど、ソラークは心配ないと言った。父の仕事の手伝いで、それなりの心当たりがあるという。
 私は彼の言葉を疑ったものの、サングラス越しでは真偽の判断はできず、信じるしかなかった。そして、結局のところ、ソラークは彼なりに裏社会の流儀を手早く身につけるようになっていったのだ。この経験が、ゾディアックに入ってからも、有効に活用できているのでしょうね。
 ソラークが何をしているのかは私にもよく分からなかったけれど、最初は「夜警の仕事が見つかった」と言って、夜間に出て行くようになった。外国人異教徒や右翼によるテロ事件の話題が新聞にもしばしば書かれていた世相もあり、温厚で敬虔なキリスト教徒というだけで、それなりの信用を得られるらしい。確かにソラークの誠実な人柄は、表情や立ち居振る舞いにも表れており、後ろ暗いところがあるとは思えないだろう。それでいて鋭い眼光と身のこなしからは、少々手荒な仕事にも使えると見なされたようだ。
 ソラークが夜に出歩くようになったので、私も深夜、外出するようになった。部屋にこもっているだけでは、衝動を満たすことができず、もっと激しい運動で溜まった力を発散させないといけなかったの。
 私は郊外の森を、自分の修練場に選んだ。暗い森でも夜目が利くようになり、木々の枝に飛びついて駆け回ったり、小動物を狩って食餌をとったり、という作業が難なくこなせるようになっていった。
 そう、私の中の《闇》は、いつの間にか私の肉体能力を高め、そして心も人のそれから、もっと獣の本能に基づいたように変えていったのね。
 戸惑いはなかったのかって? 
 もちろん、最初は自分の変化に戸惑い、怯え、受け入れるまでの過程があったわ。でも、今さら、そういう話を延々と聞きたい?
 ドラマや映画では、そういう心理描写を強調するけれども、現実では3日もすれば割り切って、受け入れるようになるわ。人はそういう、どうしようもない悩みを延々と抱えて、生きていけないの。
 とりわけ、私の場合はそう。
 呪われた運命を嘆いて暮らすぐらいなら、自分の陥った状況を少しでも良くできないか、周りのものを上手く利用できないか、知恵をこらそうとするわね。
 何の因果か、自分が人ではない魔物になった。
 それでも、私は生きていたいし、ソラークとも離れたくない。
 だったら、自分の手に入れた力で何ができるか確かめながら、破滅的な衝動を抑えたり、隠しごとをしたりして、自分を維持するしかない。
 魔物だから生きていてはいけない、なんて法はないわ。
 それが、世間知らずな独り善がりの考えだということは、後で突きつけられたのだけど。
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「魔物って、ライゼルが言っていた醒魔(アウェイカー)のこと?」ぼくは気になって尋ねた。
「トロイメライもそう言っていたけど、私にはよく分からないわ」カレンは右手を頬に当てて、考える仕草を見せた。「レギンは先に星輝士で、後から邪霊の力を宿すようになった。あなたは、石を移植されて《闇》の力を得た。私は先に邪霊に憑かれて、後から星輝石を与えられた。みんな同じと見なしていいのか、自分でも分からない」
 そう言われてみれば、ぼくだって自分が醒魔(アウェイカー)に分類される存在なのか、いまいち実感がない。ライゼルみたいに「醒魔士(アウェイクリッター)」なんて称号を誇らしく名乗ろうとも思わないし。
「一つだけ分かるのは、(デュンケ)ライゼルみたいにはなりたくないってことね。人間としての理性や尊厳は失いたくないわ」
 同感だ。
 理性を失った戦闘機械(バーサーカー)に成り果てるのは、ぼくだって勘弁だ。《闇》の衝動に苛まれながらも、心は人を維持したい。
 トロイメライが「ライゼルではなく、カレンと同じ道を歩め」と言った意味がよく分かった。彼女は《闇》を宿していても、うまくそれを秘め隠しながら、人として生きていると思う。
「君は、悪いことは何もしていないんだね」ぼくは安心して尋ねた。「ええと、秘密を守るために嘘をつく以外で……」
「他に、何があると言うの?」
「人殺しとか」
「それぐらい、何人もあるわよ」カレンはそう言って、微笑をこぼした。
 ぼくは思わず絶句した。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
 ソラークは、父を殺した。
 そこには彼なりの義侠心や憤怒といった理由がある。
 だけど、私は彼以上に人を殺したという自負がある。
 最初は小動物の命を奪うだけで、十分、滋養になった。
 そのうち、私の中の《闇》は満足しなくなり、狩りの的を人に定めた。
 翌朝、森に住む一人の木こりの惨殺死体が発見され、近辺で猛獣狩りが行なわれることになった。

 カールスルーエでの滞在が2ヶ月に及んだある日、ソラークは嬉しそうな表情を作って、私に話しかけてきた。
「カレン、喜べ。ボーナスが入ったよ」
 私はいぶかしんだ。「何のボーナス?」
 兄は瞳を閉じて、用意していたセリフを暗誦するように言った。「警備先に強盗が入ったんだ。それを捕まえたことに対する追加報酬さ」
 ソラークが嘘をついているのは分かった。
 彼の手が洗っても消えない血の臭いを発していることは、高まった感覚で嗅ぎ当てられた。
 バロック建築の建物が象徴的に印刷された、緑色の100ユーロ紙幣の札束を眺めながら、私は心配そうに言った。
「あまり、危ないことはしないでね」
 その後、数日間の地元の新聞を見ても強盗が捕まったニュースは出ておらず、いくつかの殺人事件が挙がっていた。そのうちのどれにソラークが関わったのかは判断できなかったけれど、彼も私とは違った形で人の世界の闇に浸かってしまったことに気付いて、自分のいまだ残っていた良心は痛んだ。
 もっとも、私に彼を責める資格はなかったのだけど。

 私たちの宿の周りに、黒服黒眼鏡の男たちの姿が見られるようになった。
 警察の手の者か、それともソラークの新たな犯罪に関わる裏社会の者か、はっきりしなかったものの、明らかに彼を尾行(つけまわ)している素振りがあったので、気になった私は夜の闇に紛れて、連中を排除することにした。
 都会での狩りは獣のせいにできない分、森の中よりも危険だったけれど、この頃の私は人間社会のルールにはずいぶんと無頓着になっていた。
 翌朝、首の骨を折られた死体と、顔面陥没した死体が見つかり、謎の猟奇殺人事件として話題になった。被害者は身元不明で、想定される犯人は巨漢の大男とされたけど、おそらく事件は迷宮入りとなったでしょうね。
「何だか物騒ね」新聞を見ながら、私は何食わぬ顔でソラークに話しかけた。
「ああ、まるで人殺しがいたるところにいるみたいだよ」彼の表情は深刻だった。「こんな様子じゃ、この街も、そろそろ出て行ったほうがいいかもな」
 本当にそうした方が良かったのかもしれない。
 だけど、私たちはもう3週間、滞在を続けて、危機に見舞われることになった。

 その夜、観光ガイドを読んでいた私の部屋に、例の黒服黒眼鏡と同じ風体の男が3人、飛び込んできた。
「ラークス・ロッシュの女だな」リーダーらしい中肉中背の男が銃を突きつけながら尋ねてきた。
 とっさに反応できず、私はおとなしく手を上げてから、「女じゃないわ。妹よ」と習得したてのドイツ語で抗弁した。
「フン、気の強い女だ。どっちだって、ラークスの身内であることには変わりない。おい、お前たち、この生意気な女を押さえてろ」部下に命令すると、長身とデブの二人組が私の背中に回って、後ろ手に縄で縛りつけて来た。
 本気を出せば力で負けるとは思わなかったけれど、銃で撃たれるとどうなるかまでは分からなかったので、私は歯噛みしながらされるがままになっていた。
「ヘヘ、いい女だ。売り払ったら、いくらになりますかね」長身の男が下卑た口調で言った。
「まだ、傷はつけるなよ。ラークスへの人質にするんだからな。奴を確実に仕留めるためには、手段は選べん」
「でも、その後は、少しぐらい楽しんでも……」デブの口調に、背筋がゾワっとする。いくら例の衝動が抑えられない夜があるとしても、私にだって相手を選ぶ権利ぐらいある。
「あまり調子に乗ってると、ひどい目に合うわよ」銃さえなければ、と思いながら、強気な言葉を発した。そうせずに内側に溜めておくと、自分の本能を抑えられないような感じだった。「大体、兄が何をしたと言うの?」
「お前の兄貴は人殺しだ」リーダーは律儀に答えてくれた。「だから報いを受けてもらう」
「あなたたちは人殺しじゃないの?」私は尋ねた。
「殺しの世界にもルールがある。奴はそのルールを破った」
 そんなルールがあるのなら、私だってルール違反だ。それで報いを受けないといけないのなら、私だって死なないといけない。
 しょせんは人の作ったルール。縛られる必要はない。
 私が衝動に飲まれかけたとき、窓から外を見ていた長身が言った。
「兄貴、奴が帰って来やしたぜ」
「いよいよか」リーダーは舌なめずりをした。
 こんな奴らにソラークを殺させるわけにはいかない。
 高まる衝動を抑えきれずに、我を忘れた私は、手首を縛った縄を引き裂いた。
「うわ、兄貴。この女……」伸びた爪で長身の心臓を抉り出してやろうか、と思ったとき、銃声が鳴り響いて、私はその場に倒れ伏した。
「バカめ、抵抗するから」リーダーの声が虚ろに響くのが、ぼんやり聞こえた。
 直後に扉が開いて、ソラークが飛び込んできた。「カレン! 貴様……」叫び声と共に、何かが空気を切り裂く音がして、次いで、刃が肉に刺さる音と血の匂い。
 リーダーが倒れ、デブがソラークに突進していくのを肌で感じた。
 さらに長身がナイフを構えて仲間に加勢しようと動いたとき、私は何とか痛みをこらえて、相手の足を蹴りで引っ掛けた。
 不意を討たれた男が私の方に倒れ掛かってきたので、とっさに相手の持っているナイフを奪い取って、下から心臓を一突き。そのまま、凶器を相手の手に戻してやる。
 相手が勝手に転んで、自分で自分を突き刺したように偽装すると、そのまま起き上がって、ソラークの様子を確かめた。
 彼は手持ちの短剣でデブの首を切り裂いて始末していた。
 リーダーの首には、別の短剣が突き刺さっている。
「カレン、無事だったか」ソラークは安堵の表情を浮かべた。
 私は呆然としていた。
 演技ではない。
 衝動のままに、一方的に人を殺したことは経験済みだったけど、殺し合いに巻き込まれて命を危険にさらしたことは初めてだったから。
「もう一人は?」私は不安そうにそちらを見やった。
「死んでいる」ソラークは確認した。「お前がやったのか?」
「ええと、足を引っ掛けて転ばせただけ」そう嘘をついた。
「ナイフの持ち方がおかしい。お前が刺したんだな」
 偽装工作の意味はなかった。私はやむなくうなずいた。
「銃弾は?」兄は続けて質問した。
「そ、そうね……」確かに命中していた。だけど……魔物の回復力で癒えたらしい。「どうも、当たらなかったみたいね。うまく避けられたのかしら」
 ソラークの目はいぶかしげだった。
 私は、とっさに胸元からペンダントを取り出した。
 気付かれないように、指で少し力を込めて陥没痕を付ける。
 それから、おずおずとソラークに差し出した。
「……カレン、お前は運がいい」一通り検分してから、兄はそう結論して、神に感謝の祈りを捧げた。それから、感極まったかのように私を抱きしめてくれる。「私の不始末に巻き込んで悪かったな。お前の手まで汚してしまった」
「いいのよ、兄さん」私はそう答えた。
 私の手なら、とっくに汚れていたのだから。
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「結局、ソラークは何をしていたんだ?」気になって尋ねた。あまり卑劣なマネをするような人とも思えないし。
「警備の仕事というのはまんざら嘘でもなかったわ」カレンは言った。「ただ、警備の対象が犯罪組織絡みということで、ソラークは用心棒まがいの仕事をしていたの。敵対組織の襲撃から味方の幹部を守って、その際に人も殺した。例の報酬は、その時のボーナスということね」
「ルール違反の殺しってのは?」
「その辺が、ややこしいところなの。新参者なのに組織内で急にのし上がってきたソラークを陥れるために、いろいろな陰謀が張り巡らされたようで、結局は体のいい使い捨ての駒扱いされたってことかしら。私も詳しい経緯は知らないんだけど、どうも殺してはいけない相手に手を出したと濡れ衣を着せられてしまったみたい。最後は組織とも決裂して、私たちは生き延びるために、カールスルーエを逃げ出すことになった」
 う〜ん、複雑だ。
 犯罪組織に関わって、後から恨みを買ったと言えば、『スター・ウォーズ』のジャバ・ザ・ハットとハン・ソロみたいな関係か?
 いや、用心棒の殺し屋だったら、賞金稼ぎのボバ・フェットが該当するのかもしれないけど。
 でも、たぶん全然違うだろうな。
 人の世の裏社会に生きる若き殺し屋ソラーク。
 より暗い人外の力を宿すに至った娘カレン。
 この兄妹の物語をジャンル分けするなら、SF映画よりもむしろ都会風怪奇(アーバン・ホラー)アクションになると思う。そこにメロドラマの要素を付け加えると、女性向きにもなるのかな。『バッフィ』とか、『トゥルー・ブラッド』とか、詳しくは知らないけど、一部で人気を博しているそうだ。
 そう、カレンの告白を、ぼくは半分虚構(フィクション)として受け止めていた。
 ゾディアックに拉致されるまでは、平凡な高校生でしかなかった自分にとって、あまりに遠い世界の出来事。
 ドラマだったら、「悲しい話だね」とも言えるし、「暗い影を帯びた美形の男女が活躍するスリル溢れるアクション」を楽しむこともできる。
 だけど、現実のことなら、その当事者に何と言っていいのか。
「作り話じゃ……ないよね」結局、そうつぶやくことになる。
「それなら、私は今ここで、あなたと話していないわ」カレンは感情を込めずに答えた。「私とソラークの関係。ゾディアックに来る前に、私たちが何をしてきたか。闇との関わりも含めて、全て私たちがここにいる理由と言えるわ。私という人間を知りたければ、あなたはこうした物語をきちんと受け止めないといけない」
 それから、はにかんだように付け加える。「もっとも、ソラークに対する私の個人的感情は、必要なかったかもしれないわね。あなたに話すべき内容じゃなかったわ」
 以前のぼくなら、この言葉をうっかり聞き流していただろう。
 だけど、少しは女心を意識しようとすると、この種のセリフにあてつけがましさと同時に、何かの期待を読みとった方がいいと感じた。
 個人的感情が話すべき内容じゃない、ということは、それ以上、心に踏み込まれることを望んでいないということになる。
 それでも、カレンはここまで話してくれたのだ。そこからも、何か大切なメッセージを読みとらないといけないのではないか。
「君にとって、ぼくは下卑たデブと変わりないのかな?」自分の不安をストレートにぶつけてみる。
「何よ、それ?」カレンの表情は戸惑っていた。「あなたはあなた。私たちの殺したならず者とは関係ないわ、カート」
「それでも、ぼくは君に選ばれるに値する男でいたい。ラーリオスとか、そういう肩書きなんか関係なしに」
「程ほどになさい」カレンは冷たくあしらった。「あなたの本命は、やっぱりスーザンであるべきよ。私の本命はソラークだけど、そのことはあなたに関係ないわ」
「本命がソラークなら……どうして、ぼくと寝たんだ? ただの衝動に過ぎないのか?」
「カート、いい加減になさい。《暗黒の王》が入ってきているわよ」
 ぼくは慌てて、手持ちの花を見た。
 確かに、紫に染まっている。
 気持ちを静めて、黄色に戻す。
「夜が近いからかしら。少し話が長引いたみたい」
 時計を見ると、6時前。
「そろそろ、夕食の時間ね。久しぶりに、まとまった物を口にした方がいいわ」
 確かに、スープやハンバーガーだけじゃ、栄養補給も十分じゃない。だけど……
「続きは、夕食の後でどう? 心配しなくても、私は逃げやしない。夜は長いんだから、あなたの納得いくまで付き合うわよ」
 それから、ぼくの瞳に視線を向けた。探るような青い瞳に思わずドキリとする。「色は変わってないみたいね。だったら、純情なリオ様に教えてあげる。あなたとどうして寝たかなんて難しい質問なんだけど、一つだけ言うなら、可能性に賭けたってことよ」
「可能性?」
「そう」カレンは真剣にうなずいた。「上手く育てば、あなたはソラーク以上の男になるかもしれない。少なくとも、兄さんはそう信じているわ。単に下卑たデブになるか、ソラークを越えた大物になるか、それはあなた次第。だけど、私は後者(あと)であって欲しい。ソラークを越えるかもしれない男にだったら、私だって抱かれ甲斐があると思えるから」
 そう言うカレンの瞳は、無邪気そのものと言ってよかった。
 だけど、ぼくの心には《闇》以上のプレッシャーを与えてきた。
 自然に無垢さを装えることが、どれほどの武器になり得るか、ぼくはこのとき初めて知った。


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